Profile : 高度成長期に学生時代を過ごし、オイルショックで就職に苦労するも、右肩上がりの80年代をモーレツ社員の一員として働き、気がつけばバブル崩壊、希望退職で外資企業に転身して14年。
「世界の中の、明日の日本と日本人」をテーマにしている56歳。
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彼岸と此岸
心構え
ビジネス » 職業
先日、法事で読経の後、ちょうど彼岸時期であったこともあり和尚さんが「彼岸」について話してくださいました。
一般に彼岸とは、煩悩を脱した悟りの境地の事で、煩悩や迷いに満ちたこの世を此岸(しがん)と言うのに対し、三途の川の向こう側の極楽浄土を彼岸というようですが、和尚さんの説明はちょっと違っていました。和尚さんは左のような逆の樹状図を手に取り、話しました。多少長いのですが、記憶をもとに再録します。
(図の一番上の丸印を指しながら)あなたはお母さんとお父さんから生まれました。そのお父さん、お母さんはさらにそのお父さん、お母さんから生まれたのです。一世代前で2人、二世代前で4人、三世代、四世代と増えてゆき、五世代前では32人、十世代前では1,024人、十五世代前では32,768人ものお父さん、お母さんたちがあなたの今の存在を支えているのです。そのうちのだれ一人欠けてもあなたは存在しないのです。これが彼岸です。あなたが今いるこちら側を此岸と言いますが、あなたもいつかは三途の川を渡って彼岸の人になるのです。
と語ったあと、こうして繋がる命について年に2回、彼岸の1週間に自分について思い、そして「彼岸」の先祖について思ってみてはどうでしょうか、と話を結びました。
日頃はあまりにも理念的で概念としてしか考えていない「彼岸」が、現実的な樹状図を示された事によって、現実味を帯び、妙に身近な世界として感じられました。「彼岸」の意識の薄い現代は、逆に「此岸」の意識も薄く、死も軽ければ、生自体も軽いのかもしれません。命の流れの中で今を生きている、といった事を落ち着いて思ってみたくなりました。
輿論と匿名性
心構え
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最近は毎日のように世論調査が行われ、政党の支持率が変わった、だれが首相に適しているか、といった調査結果が発表されています。
この世論ですが、辞書では「社会の大多数の意見」という事になっているのですが、本来意見というものには責任が伴うはずで、たとえ何かの事件が起こったからと言って、その事件の意味合いも吟味されないうちに時々刻々意見が変わる、というのはおかしくないでしょうか。
また現代はメールやブログを利用した匿名の意見が氾濫しているのも気がかりです。私はこのブログを実名で書いていますが、多くの方々はブログを匿名で書かれていると思います。それはそれで個人情報保護の観点から薦められていることでもありますが、しかしこの匿名性が自分の意見に責任を持つ意識を低下させては人間同士の信頼関係を低下させてしまう事になるでしょう。もちろん人間同士の会話には常に責任が伴うとは限りません。その場の空気のような一時的な気持ちを交換する場合もありますから、匿名性を全て否定するわけではなく、責任の伴う意見と責任の伴わない気持の交換を区別すると良いのではないかと思います。
実は世論をセロンと時々読んで、ヨロンだと訂正される事があるのですが、先日京都大学の佐藤卓己(サトウタクミ)助教授の「『世論』はいま、ヨロンと読みますが、戦前は『輿論(ヨロン)=公的意見』、で『世論(セロン)=大衆感情』と区別していました。日本戦後史は“輿論の世論化”に他なりません。」という話を聞きました。つまり当用漢字の制定により輿論の「輿」が使えなくなったため新聞、テレビ、もちろん学校でも輿論と世論の選択が出来なくなり、全て世論と書いてヨロンと読むことになってしまった、というのです。
意見と気持ちという、二つの違った概念を表す二つの言葉を一つにしてしまった事により一方の概念がなくなりつつある。これは肌寒い事ではあります。やはり意見には責任を持ちましょう。受けが悪かったからといって、簡単に意見を変えたり、批判を受けると「そんなつもりで言ったのでは無い」と言い逃れするのはやめましょう。
タングロン
お勧め
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私用で北海道芦別市にあるスターライトホテルに泊まった時に、売店で見慣れない飲料を発見しました。タングロンという名前も興味をそそりますが、パッケージの「昆布エキス飲料」という説明が気になります。とろろ昆布のお吸い物は好きな方ですが、昆布と飲料の語感は結び付きません。「何か特殊なもの」を予感させます。値段も一つ60円余りと手ごろなので温泉の湯あがりにまずは一本買ってみました。
原材料表示には昆布酵素エキス、リンゴ果汁などとなっています。昆布とリンゴ、ますます独創的な取り合わせに驚きます。しかし意外にも付属のストローで飲んでみると、スッキリ、さわやか、昆布のヌメリ感はなく、どちらかと言えば酸味のきいたリンゴジュースという感じで、量も手ごろで一息入れるのにはちょうど良い感じです。
あとからネットで確認してみると、タングロンは北海道大学水産学部の近江彦栄(オオミ ヒコエイ)先生が開発した「リンゴ果汁」と「昆布エキス」と「天然酵素」を親和培養した自然の保健飲料、だとの事で、保育園、小中学校の学校給食、そしてなんと自衛隊給食として採用されているようなのです。
最近のリンゴジュースは甘みが喉に残るような気がしてあまり飲まないのですが、タングロンの味は子供の時に、風邪をひくと母が林檎を擂ってガーゼで絞ってくれた(当時はまだジューサー等はなかった、残念ながら実家にはミキサーさえなかった)、酸っぱ味の残ったリンゴ果汁の味がしてお勧めです。まだ昆布エキスの効果は実感できませんが、長年飲んでいた人は80歳を過ぎても黒髪が残っていたと言いますので、黒髪維持の効果もあるかもしれません。
製造元:日本酵素産業株式会社 芦別市上芦別町350
タングロンで検索すると、いくつかのネット通販サイトが見つかります。
問題を分かりやすく
社会問題
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鳩山邦夫総務相の「国の恥だ。国辱ものだ」という鶴の一声で、突然工事が中断した東京中央郵便局再開発計画は、わずか11日後に日本郵政が保存部分を約2倍に増やした上で登録有形文化財への登録を目指すことで文化庁と合意し、決着しました。
しかし、もともと日本郵政は「既存の局舎は歴史的価値が高く、保存を求める声が強いこと、また東京駅などの景観との調和を図るため、外壁を可能な限り保存・活用し、その後ろに接する 形で地下4階・地上38階建て、高さ約200mの超高層ビル『JPタワー(仮称)』を建設する」と説明し、左の計画イメージ図を紹介していました。このイメージ図を見る限り旧中央郵便局のL字型をした局舎の外観は全て残される様に見えました。ですから鳩山邦夫総務相が「天然記念物のトキを焼いて食べちゃうようなもんだ」と噛みついた時には、しかし局舎は最大限残されるのだから、営利企業の日本郵政としてはこれ以上の方法はないのでは、と違和感を感じ、何がそんなに問題なのかが分かりませんでした。マスコミもこの時点では論点を詳細には報道していなかったと思います。
それが3月13日の日本郵政の発表を伝えるニュースにあった左の説明図を見ると、もともと日本郵政が保存するとしていたのは局舎の北側(駅前広場側)のみで、北東側(JR線路側)は取り壊したうえで再現する計画だったというのです。これでは当初の「外壁を可能な限り保存・活用」するとは言えないでしょうし、イメージ図とも異なってしまうように思います。結局北東側の局舎を含め保存する事になったのですが、こんなに早く計画変更できるのも不思議な気がします。もともと日本郵政は中央郵便局の局舎保存をどう考えていたのでしょう。東京中央郵便局の再開発の後、大阪中央郵便局の建て替えも計画されているのですから、文句が出たので計画を変更したではなく、当初の計画にはこのような利点があったが、計画を変更することでさらにどう良くなる事が分かったので計画を変更した、というような分かりやすい説明が必要ではなかったでしょうか。
アメリカにUSA Todayという新聞があります。ホテルなどで配られる一般紙ですが、絵入りの説明が多く、英語の説明が分かりにくくても全体像をつかみやすく気に入っています。日本の新聞、テレビ報道も事件を刺激的に伝えるだけでなく、事件の背景、当事者同士の考えの違いを分かりやすく説明する工夫をしてもらえると良いのですが。
有形文化財
社会問題
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北海道の登別市に登別温泉ふれあいセンターという建物があります。千歳から道央自動車道を南下し、登別東インターチェンジを降りて登別温泉どおり5分程走ると、登別温泉の入り口です。登別温泉ふれあいセンターは温泉街の入口にある道南バスターミナルに接して「登別川の上に建っている」珍しい建物なのです。
以前昭和モダン建築巡礼(磯達雄著、日経BP社刊)という本で見たのですが、写真でも分かるように川の上に建っている、というだけでなくその馬の鞍のような優美な曲線の屋根が印象的で一度見てみたいと思っていました。ちなみに昭和モダン建築巡礼には日本の由緒ある昭和モダニズム建築が60弱紹介されています。さてこの登別ふれあいセンターですが北海道大学の建築学、都市計画学の教授を長く務めた太田實先生が設計し、昭和32年に竣工した建物で、当初は温泉科学館として使われていたそうです。しかしその特徴である鞍型の屋根が災いして、室内の反響音が酷く展示室としても嫌われたらしく、維持管理に手お焼いた所有者の道南バスが取り壊しを見積もったところ、8千万円掛かるとわかり取り壊しを断念、現在登別市がふれあいセンターとして運営している、との事でした。
案内してくれた市の職員の方の話では「お金をかけて整備したいけれども、建物に興味がある人といっても年に5人ほどいらっしゃるだけでは、費用対効果の説明がつかなくてお金が掛けられません」と、良い利用方法もないまま周りの山並みと温泉ホテル群を一望できる2階ホールは通常非公開となっていました。
戦後の復興期から高度成長期にかけて建築された由緒ある建築も今の尺度で考えると使いにくい、維持にはお金もかかるが、取り壊すにはもっとお金がかかる、と悩みの種になって建物も多いのではないでしょうか。しかし使いやすいか、使いにくいかという基準で考えれば常に最新のもの以外はなにかしら使いにくいはずで、古いものはいらない、という発想になりかねません。使いにくいところは、それはそのまま受け入れて、良い点、貴重な点を評価し、伝えていかないと歴史は作れないでしょう。登別温泉は開湯150年だと聞きます、ふれあいセンターもあまり大きな費用対効果を期待するのではなく、室内の反響音の凄いのも、そういう特徴だと受け入れて登別の歴史を語る一つの有形文化財として考えてはどうでしょうか。
歴史の実像
まさか!
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私用があり北海道に行って来ました。
今年は暖冬で日々花粉症の心配をしていますが、さすがに北海道はまだ冬で多少雪の心配をしましたが、幸い天候はそれほど悪くなく千歳には定刻に到着しました。レンタカーを借りて千歳から札幌へ小雪の中を向かいました。しかし札幌から旭川に向かう頃には風が強くなり高速度道路脇の横風警報器は今にも壊れそうなくらいプロペラを回していましたし、乗っている車もハンドルをしっかり握っていないと横風に吹き飛ばされそうな強さでした。
知り合いの話では、札幌を過ぎて江別、岩見沢と平原が続くためか昔から横風の名所だそうです。やはり北海道の自然は日本の中では規模が大きいせいか気候も一回り厳しいようです。無事に目的地に着くと、風は強くありませんでしたが山間のためか雪は視界を遮るように降っていました。
北海道の開拓については学校の歴史教科書で屯田兵だとか札幌農学校だとかを歴史用語として教えられた記憶がありますが、残念ながら実際の開拓史を知る事はありませんでした。後年帯広の開拓に尽力した依田勉三率いる晩成社という開拓団の事を知ったのですが、15年で1万町歩の土地を開墾する計画が、10年経っても50町歩開墾する事も出来なかった、という事があまりにも計画と実績のズレが大きくて当時の開拓の実像が理解できませんでした。
思うように開拓が進められなかった原因にはバッタ、野ネズミの襲来などがあったそうですが、なによりこの風、雪の激しさに冬場活動できない日が多く発生したからでしょう。今日では1日降り続いた雪でも、トラクター型の除雪車が翌朝には幹線道路の除雪をしてくれますが、除雪用の重機がなかった時代には天候が回復しても雪かきに多くの時間が必要だったことでしょう。
既に用事を終えて戻ってきましたが、今回の短い旅行で今まで理解できなかった開拓の実像を実感するのに十分な自然体験が出来ました。改めて依田勉三はじめ開拓者の方々の苦難と努力に思いをはせました。4月の後半には雪もなくなり一気に春になるそうです。その時期に今度は北海道の自然の豊かさを楽しんでみたいものです。
天賦の才
心構え
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3月8日まで東京国立博物館で開催中の「未来を拓く福澤諭吉展」を見てきました。幕末から明治期に福澤諭吉なりに日本の未来を切り開くために、どの様に考え、どう行動したか、各種書簡や自筆メモを通して感じられる展示でした。
一方、時は受験シーズン。世の受験生には悲喜こもごもの審判が下っていることでしょう。今となっては「受験の成否で一生が決まるわけではない」と言えますが、自分の受験を思い出しても努力報われず『桜散って』しまった受験生にとっては、頭を切り替えて明日の事を考えるのは容易いことではないでしょう。
状況は異なりますが、留学する息子達に宛てた福澤諭吉の言葉が参考になるかもしれません。一部を記憶に基づいてご紹介すると、
「留学するに当たっては勉学を第一に考え、父母に万一の事があっても帰国には及ばない。天賦の才は人それぞれであるから焦ることなく、事を極めるまで励むように」
「勉学第一」、だけでなく「天賦の才は人それぞれ、焦ることなく励め」と語っているのが、単に頑張れというのとは違い多くの試練が予想される当時の留学にあって、気負いではなく腹を据えて事に当たる、落着きと勇気を息子達に与えたのではないかでしょうか。大学進学率が50%近くだと言われる現代、受験の失敗が集団からの孤立と感じてしまうかもしれません。しかし有名大学、大企業というレールが当てにならなくなってきた昨今、受験の失敗を集団から外れ一個人としての自己を確立するチャンスと捉え、頭を切り替えてはどうでしょうか。早い時期に自分の将来を考えるのは順調な進路を進むのに比べそれほど不幸ではないかも知れません。先の読めない不安定な時代ですが、先人の考え、行動を参考にして腹を据えて“未来を拓く”努力をしたいものです。
ビデオ会議システム
提案!
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ビデオ会議システムというものがあります。テレビカメラ、マイクと大画面薄型テレビを組み合わせたシステムで、こちら側の映像・音声を相手側に、相手側の映像・音声をこちら側に同時に映します。日本では対面のコミュニケーションを重視するのか、新幹線をはじめとした交通機関が狭い国土に発達していて、移動に時間がかからないためか日本企業ではあまり使われていないようですが、多地域間の会議の多い外資企業では価格の安くなった5年ほど前から普及しています。個人レベルでもパソコンを使ったSkypeというネットサービスの簡易ビデオ電話機能が便利に利用されています。映像があると相手の様子が分かり、音声だけの電話に比べ格段に話しやすいと思います。このような対面のコミュニケーションを補完する遠隔地間のコミュニケーションのコストが安くなると、今まで困難の多かった過疎地の医療診断などにも新しい方法が検討可能になるでしょう。
一方、先日の麻生首相とオバマ大統領との1時間の会談、と言うより共同声明も公式晩さん会もないので単なる打合わせと言った方が実態に合っているのかも知れませんが、には政府専用機が使われました。100年の一度の経済危機の中片道13時間の飛行時間ももったいない気がしますが、ハイテクジャンボ機を使った出張経費はどのくらいだったのでしょう。
内閣官房内閣広報室のホームページによれば政府は政府専用機を2機所有しており、航空自衛隊が運航を担当しているそうです。なぜ2機所有しているかと言えば「運航する際には、2機の政府専用機が同時に飛び、整備担当の自衛官も同行し、万全の態勢をとっている」そうです。報道はされませんでしたがワシントンを往復したジャンボ機は、実際は2機だったのでしょう。なお専用機導入を閣議決定した時の予算は2機合計で360億円だったそうです。
コストのかかる政府専用機ですが、緊急時の在外邦人の輸送や国際緊急援助活動などにも利用されるので、必要だとは思います。事前の打ち合わせなど機内で行いながら重要な会議に臨むために総理などが利用するのも良いでしょう。ただしいろいろなコミュニケーション手段が利用できるようになった現在、打合わせの目的や内容によって手段を選び、時間を有効に使って難局にあたってほしいものです。
おくりびと
社会問題
ビジネス » 職業
「おくりびと」がアカデミー賞を取りました。
このところ世界に対し胸の張れることの少なかった日本ですが、これは良かった。まさに「こいつぁ春から縁起がいいや」ではないでしょうか。
昨年わたしが「おくりびと」を見たとき、ちょうど母を亡くしたあとだったこともあり、いろいろな死を真摯に送る主人公の姿に、そして行き来の無かった父に複雑な気持ちを持っていた主人公が、自ら父の湯灌(ゆかん:遺体を湯で洗い浄め、死装束をまとわせる)をする事により隠されていた父の気持ちを理解するストーリーに涙しました。
私の母は約15年以上、いわゆる認知症を持っており、早い時期から私が息子であることを認知できませんでした。母と私は性格が似ているせいか、お互いの性格がぶつかりあわないように私が成人してからはあまり母の話を聞くことはありませんでした。しかし兄弟の中で一番母の影響を受けていると思う私は、母が私を認知できなくなった事を知ったとき、「しまった」と思いました。
そうなる1年ほど前、まだらボケになっていた母の具合を見に久しぶりで実家を訪れたある冬の日、帰り際に「外は寒いからここで」と玄関で言う父に対し、母は「見送りに行くよ」と外へ出て駅への帰り路を一緒に歩きました。あまり遠くまで来て家に帰れなくなるといけないので、曲り角の所で「もうここらで良いよ」と言うと、母はずーとそこで手を振って、私の姿が見えなくなるまで、帰ろうとしませんでした。私の見送りで玄関から外に出る事などそれまで無かった母のこの行動が腑に落ちず、しばらくして道を戻って母が家に入るのを確認し、それからまた駅へ向かいました。あの日を境に母は私を認知できなくなりました。言わばあの日が私にとって母が亡くなった日になりました。思えばもう一度実家に上がって母と話をすれば良かった。
さて、認知症になった母には幸い徘徊癖だとか、凶暴性だとかは現れませんでしたが、どうしても見た目は崩れてしまいました。食べこぼしなども見ようによっては汚いと見えてしまうのも仕方ありません。後年は寝たきりになったため体も曲がってしまいました。母の死が近づいた時に、壊れてしまう前の元気な母を知らない孫たちには、身ぎれいな母を送ってもらいたいと私は思いました。
死化粧についてはケネディーやマリリンモンローに施された、防腐処理をして生前の姿に修復するエンバーミング(embalming)は知っていましたので、体を清めたうえで生前の姿に近づけるような化粧をお願いしました。男女の納棺師の方は手際よく作業して、母を壊れる前の姿、表情に戻してくれました。人の思いは外見に左右されることも多く、ほとんど火葬の日本ですが、最後の短い時間とはいえ母にかつての姿を取り戻してあげられたのは良かったと思いますし、誰とも知れない死者を、献身的に面倒をみる納棺師の方には感謝しました。