これが最先端?

体験レポート

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今年の1月初めにYahooBB(ソフトバンクグループ)ADSL回線をNTTの光回線に切り替えました。確かにネットアクセスは早くなり気持ちよく使っていましたが、NTTの電話料金とインターネットプロバイダー料金(メールを含むネットアクセス)を合わせると月に9,000円ほどになっていました。この他携帯電話AUで通信料金はまた別の請求となっていました。

この秋携帯の機種交換のためAUの販売店を訪ねた時に、わが家の周辺でもAUの光回線サービスが始まっている事を知り、電話料金とプロバイダー料金を一括した契約で6,000円ほどで済むという事から、意を決して電話回線をNTTからAUに切り替える事にしました。意を決する必要があった、というのは元々のアナログ回線時代からの電話番号は移動できるのですが、今年初めに取ったFAX専用の電話番号は移動できず、AUから新規に取るため電話番号が変わってしまうからです。しかし年間3万円以上の節約には代えがたく、電話回線の切り替えに踏み切りました。

回線切り替えの数日前にホームゲートウエーなる弁当箱ほどの機器が二つ送られてきた時に「何かおかしい」と気になりました。回線切り替えの当日、2名の作業員が来訪し30分ほどで新しい光回線の敷設は終わったのですが、係員は別の小さなDSUという機器を残して「光回線は正常に動作しています」と言って帰って行きました。

なんと「後は説明書を読んでホームゲートウェーをつなげてください」というのです。自動的に回線料金の課金が始まるというので、仕方なく説明書を読み接続を試みました。まず呆れたのはホームゲートウェーが二つ送られてきていたのは電話番号を二つ使うためだという事が分かった事ですが、さらにその二つの機器をDSUにつなぐためにハブという機器を自分で買っておかなければいけないという事が説明書の片隅に書いてあったことです。

さらに無線LANを使うためにはさらに別のメーカーの無線LAN親機を用意しなければなりませんでした。機器の接続は4、5日電話で問い合わせを繰り返し完了しましたが、現在わが家では合計5台の機器が最新の光回線を使った電話とネットワーク環境を実現するために稼働しており、夜部屋の電気を落とすとまるで都会の夜の高層ビル群を見るようです。これが本当に最先端なのでしょうか?僅かな費用節約も素人には手に負えない世の中になってきているようです。

さて1年続けた「口角を上げて」ですが、自分の考えの整理には大いに役立ちました、しかし同じ形を続けてはいけないので新年は少し休みを取って、構想を新たにして再開したいと思います。どの程度楽しんでいただけたか分かりませんが、多くのアクセスをいただき有難うございました。良い年をお迎えください

天皇の戦争責任

歴史認識

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太平洋戦争が話題になると、昭和天皇に戦争責任があるのではないかという意見が出ます。中にはA級戦犯が死刑になっているのに昭和天皇が裁かれる事もなく象徴天皇として生きた事が公平でない、と考えている人さえいるようです。

私は歴史研究者でもないし、あくまで私人の考えでしかありませんが、そもそも戦争責任とは何かと思うのです。極東軍事裁判では平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪という事になっているのですが、これらはポツダム宣言で規定された罪であり、事前にこれらを理解して戦争を始めたわけではありません。ですからインドのパール判事が「これらの規定が事後法である」ためA級戦犯を無罪としたように、これを戦争責任とする事は出来ないと思います。

だいいち太平洋戦争以前に領土の割譲及び賠償金の要求はあっても、戦争責任を追及する裁判など無かったと思います。戦争の責任とは戦争に負けた責任であったり、戦争には勝ったが賠償金が取れなかった、など当事国国民が国家に対して不満をぶつける物だったと思います。戦勝国の関心は出来る限り賠償金を取ることであって、戦勝国が戦争責任を追及する目的は報復以外あり得ないと思います。

そこで私は戦争責任を「戦闘意思の無い人(民間人や捕虜)に対する虐殺、殺害、抑圧の計画、命令、実行及びそれらが起こりうる状況の設定」だと考えるので、戦勝国であれ敗戦国であれ戦争責任を追及されるなければならない人は出てくるでしょう。そしてその追求はそれぞれの国自体で行うべきだと思うのです。この点で日本は自ら戦争責任を追及していないので「不幸な歴史を繰り返しません」などと言う資格はないと思っています。

さて昭和天皇の戦争責任を私の定義に基づいてみてみると「それらが起こりうる状況の設定」に反対しなかった責任はあるものの、自らの手で「状況を設定」した戦争責任があるとは認められません。昭和天皇は英国の立憲君主制をみならい、絶対君主にならないよう自分で事を決することなく、唯一ポツダム宣言受諾だけを自ら決めたといわれています。ですから戦争責任があるとしても荒廃した国土、国民に対峙しながら人間宣言をして復興の支えになろうとした事で贖罪になったのではないでしょうか。出来れば「状況設定」に利用された事を思えば、象徴天皇としても自分を最後の天皇として、戦後復興したある時点で天皇制を廃すれば良かったのではないかと思います。

社会変革

社会問題

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2009が終わろうとしています。ミゾウの経済危機で始まり、久々の政権交代があったものの、その実効はまだ現れず、再び上がった失業率で終わろうとしている2009年。今年は横浜港開港150年、伊藤博文没後100年、松本清張生誕100と記念の年づいていますが、もう一つベルリンの壁崩壊20周年でもありました。

私はまだ子供の時に、ベルリンの壁を越えようとした人が撃たれて死んだ、といったニュースを聞いた世代ですが、ベルリンの壁があった事さえ知らない人たちが二十歳になるわけです。時の流れは速く、出来事を参考にしようにも、出来事はどんどん記憶のかなたに姿を隠してしまいます。そんな時に20周年が巡ってきてベルリンの壁がどのように作られ、どのように維持され、そして突然意味がなくなり、東西ドイツが合体する、という一連の出来事のドキュメンタリーが放映され、記憶の断片がつながって理解が深まりました

一番のポイントはベルリンの壁崩壊=Happy Endではなく=新たな苦難の始まり、であったことです。

ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一を1990年に成し遂げたコール首相がしばらくして卵(腐ったトマトだったかもしれない)を民衆から投げつけれらた、という事件が起きました。当時私はなぜ再統一の立役者にぶつけられた不満が何であったのか分かりませんでした。しかしあるドキュメンタリーによれば話は簡単でした、再統一の美酒の酔いがさめてみると旧東ドイツの経済は見るも無残な状況で、旧西ドイツ企業と競争できる企業はほとんどありません。従って殆どの人が失業、貨幣価値も東ドイツマルクは西ドイツマルクに比べ1/3以下、貨幣価値よりも東ドイツマルクでは食料品も買えない、という状況に陥ったのでした。「なんだこれが再統一の結果なのか」東ドイツの人達が失望したのも無理はありません。

しかし、ドイツ人は偉かった。旧東ドイツ市民に一定金額の東ドイツマルクを支給して貨幣統合を断行し、再生不能の東ドイツ企業は潰し、可能性のある企業には積極的に投資し、ドイツ再統一を10年ほどで完了しています。ちょうど1999年ごろベルリンに出張した同じ部門の技術者が「ベルリンはきれいで、活気がありました」と言っていたのを思い出します。

社会変革は当然大きなビズミを乗り越えなければなりません。ハッキリ言えば損をする人が出ます。明治維新では幕府側はもちろん討幕側の武士もほとんどの武士は戦いの利益を得ることが出来ず「これが維新の結果なのか」と言ってあちこちで反乱を起こします。新政府は幕府が結んだ不平等条約を早く改正し、西欧列強の帝国主義に呑み込まれないよう富国強兵に必死で武士の面倒などみている余裕はなかったのです。

さて高度成長からバブル経済に踊り、グローバル化の中で外需依存の経済を変革しなければいけない日本は、誰にババを引いてもらわなけれいけないのでしょうかそれをハッキリして、妥当な救済策を提供し、具体的な社会変革を行う時期に来ているのでしょう。来年は60年安保50周年です。

自己実現観光

素人の内需拡大策

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朝日新聞が昨秋から2週間に一度、Globeという特集紙面を月曜の朝刊に入れるようになりました。これは「世界と日本の今を見つめ、未来への展望を探る」と銘打って毎回特定のテーマの記者取材と各界の人がいろいろな社会問題について考えを語る提言、国別のベストセラー本の紹介、現在活躍中の人物の紹介で構成されています。

先週のGlobe「元土建会社社長が考える地方『自立』の道」という提言が出色でした。寄稿者は山口スティーブという山形県の建設会社の元社長。名前が示すように日本人女性と結婚した1960年生まれの白人。白人の土建屋さんも珍しいですが、その彼が「業者が多すぎて、赤字受注以外に仕事をとる方法がない日々に」見切りをつけて「45年間続いた建設会社の看板を下ろす決断をし」「観光業に参入」した、といいます

観光業はこの所、内需拡大の一策と言われていますが、彼の考える観光業は「東北には都会の人々が必要とする物が豊富にある。」これらを「上手く『商品化』すれば」、「都会人の『自己実現』ニーズに応えようとする新たな観光スタイル」だと言います。確かに一般的なバスでの観光地巡りは物見遊山として楽で、便利ですが、外国人の観光のイメージとは食い違うのかもしれません。

以前米国のコンサルタントが日本での仕事が終えた時に「来週からバケーションだ!」と言うので、どこに行くのか尋ねたところ、「何も無いところだけど気温はマイナス30度だ!!」と喜んでいたのを思い出します。米国人は特にかもしれませんが、日頃体験できない何かに取り組む事をバケーションと考えるようです。

山口スティーブは言います「日本人は自分のやりたい事を抑え、家族のため、会社のため、国のために我慢して頑張る傾向が強い」「日本を元気にするためには、無理な財政出動より、日本人の『満たされない欲求』をバネにするほうが有効だ」。この不景気な時に自己実現など空々しいようですが、自動車を輸出しても輸入した原材料の支払いがありますから、50%も国内経済には回らないでしょう。それに対し観光で消費するお金は100%国内経済に回ります。日本にも温泉に連泊する湯治の習慣はありました。1週間とは言わないまでも34日やってみたい事に没頭する観光スタイルを考えてみても良いように思います。

私の戦争反対理由

歴史認識

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私は戦争に反対するけれども、それは戦争が悲惨だからという事からではないと、以前書きました。戦争は悲惨だ、と第三者的に理由づけるのではなく、直接自分の皮膚感覚として戦争に反対する理由を持つ必要があると思っていたのです。なぜなら「人間の歴史は戦いの歴史だ」といわれるように、歴史上の戦争を全て悲惨だからというだけで反対はできないと考えていたからです。歴史上の戦争は事実として、何が、どういう理由で起こり、どのように争い、迫害、略奪、抑圧があったのかを理解する対象であり、良い悪いを論じる事は出来ないと思います。

戦争を知らない子供たちである我々は、実は戦争がどのようなものであったかを戦争映画ぐらいでしか知りません。それもどちらかといえば派手な戦闘シーンが売り物の映画がほとんどです。それらの映画でいくら人が死んでも、それは戦闘シーンの一部でしかなく、戦争反対に結び付くものはほとんどありません。しかし「真空地帯」という映画を見た時、戦争のいやらしさを肌身で感じて、ハッキリと戦争反対と言えるようになりました。真空地帯は野間宏が1952年に昭和19年当時の大阪のある部隊での兵隊たちの生活を描いた小説(野間宏自身の実体験を元にしていると思われます)で、同年に山本薩夫監督が新星映画社という独立プロダクションで製作した映画です。

ストーリーは要約するのは困難ですが、要するに招集した市民の社会的な地位や能力を無視し、プライド、感情、人間としての尊厳を奪い歯車として絶対服従の<兵隊>に作り変える初年兵教育の実態が克明に描かれます。全く不快な戦争映画で、私はこのような人間性を奪うシステムとしての戦争に確信をもって反対します。そしてこのような映画こそ空想の戦争ではなく、自分をその場に置いた戦争を議論するために必要だと思います。

姫路城 その3

体験レポート

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姫路城は来年4月から5年間の修復工事に入るわけですが、見学を終え帰りがけに管理事務所の警備の方と話したのですが、基本的に瓦は50年ほどしか持たないそうで、その為雨漏りなどの補修を含め漆喰壁を取り除き、傷んだ構造を取り換えたり補修したりする必要があります。前回の昭和の修理が1964年、その前の明治の修理が1910年に終わっていて、約50年ごとに修理しているわけです。

今回の修理では城全体を仮屋根、仮壁で覆い足場を組んで作業が始まるそうで、25億円ほどの見積もりだそうです。やはり文化財を維持管理するにはお金がかかります

さてこのような姫路城ですが、姫路城の周りにはこの他美術館や歴史博物館、日本庭園の好古園などがあり、それらも興味深く見て回りました。美術館は陸軍が姫路城を管理していた時代のレンガ作りの兵器庫、被服庫を改修した建物で、ちょうど兵庫県出身の横尾忠則氏のコレクション展を見ることが出来ました。歴史博物館ではもちろん姫路地域の歴史を教えてくれますが、良かったのは全国の有名な城を1/50のモデルを一堂に展示していたことです。姫路城が江戸城には及ばないものの諸国の城の中では一番大きい事が良く分かります。

好古園はゆっくり楽しめる庭園でした。昔からの庭園と思ったのですが、姫路市制百周年記念として平成4年に開園した庭園だそうで、西御屋敷や武家屋敷跡の地割を活かして九つの趣の異なった庭園を集めています。造営から20年弱ですが、石と草木の具合も安定し、苔も一面に広がり昔からの庭園の様でした。実際時代劇のロケでは時々使われているそうです。

姫路城は貴重な観光資源ですが、姫路城の周りを順に整えている姫路の人々の努力には感心しました20年足らずで落ち着いて庭園が出来るのであれば、日々の手入れを確実に行える様は仕組みを作れば、町並みは整えることが出来るのです。その根気さと地道さが必要なのでしょう

姫路城 その2

体験レポート

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姫路城の見学の最後に、城郭への出入り口である“菱の門”まで戻ってくると、世界遺産姫路城の案内板から少し離れて“中村大佐顕彰碑”という高さ2m以上の大きな石碑が建っているのに気が付きました。姫路城と軍人の顕彰碑、それも大佐(少尉から大将までの士官の位でいえば真ん中くらい、けして位が高いわけではない)の碑が城郭内にある事に興味をひかれ、碑文を読んでみました。

碑文には「日本古来の城郭は兵器の発達にともなって、無用の物になり、明治6年太政官は全国の城郭125の廃棄を布達。姫路城は辛うじて残されたものの、その後の腐朽がはなはだしく、取り壊しの為2350銭(米価を尺度に換算しても約7,000倍で17万円ほどでタダ同然)で民間に払い下げられたそれを知った陸軍省第四局長代理の中村大佐が先人の築いた名城は是非後世に残さねばならぬと考え、陸軍卿山形有朋を説いて、名古屋城と姫路城は陸軍の費用で修理する事になった。」とありました。確かに後から知ったのですが明治に入り姫路城の一部を陸軍が演習場として使い、一帯を管理していたそうです。

明治の時代は廃藩置県、廃仏毀釈とそれまでの社会の基準が大きく急激に変わった時代です。権威の象徴だった城郭が民間に払い下げられても不思議はありません。そのまま解体されて木材が燃料にでもなっていたらどうでしょう。姫路は特徴の無い地方都市になってしまった事でしょう。そして我々はほぼ完全な城郭を持った日本の城を見ることがなかったでしょう。中村大佐は45歳で亡くなってしまったそうですが。戦場での武勲よりも大きな役を果たしたという事でしょう。

明治と同じように今はグローバル化の流れの中で大きく社会が変わっています。良い変化もあるでしょうが、後から見ればおかしな変化もある事でしょう。時代の勢いに流されないしっかりした目を持って物事を判断してゆきたいものです。

姫路城 その1

体験レポート

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白鷺城の名前で有名は姫路城が来年から5年をかけて修理に入るという事で、修理に入る前に見ておこうと急遽、姫路に行ってきました。夜明け前に家を出て、途中で仮眠をとり、午後姫路につき、早速姫路城に向かいました。

白い漆喰の城が雲ひとつない空に映えています。白鷺城の名はお城の配置が鷺が花を広げた格好に似ている事からの物で、白壁が理由ではないようですが、ほぼ完全な姿で残っている(戦災にあっていない)お城は建物としての優美さを感じさせます

そもそも姫路は姫路城で有名ですが、一体姫路城はだれの城だったのか、というのが疑問でした。戦国時代前後の歴史となると、織田、豊臣(羽柴ないし木下)そして徳川等の大筋しか知らないのが残念です。姫路城の案内によれば、もともと播磨の守護職(赤松)が砦を築いたのが始まりで、その後いろいろあって羽柴秀吉が西国後略の拠点として最初の天守閣を完成させたとありました。そ-かぁ、秀吉は主君のぞーりを温めて成り上がっただけではなかったのだ!

そして関ヶ原の合戦後家康の娘婿池田輝政が入封して、8年かけて57階の現在の天守閣を造ったそうです。ところがこの後も城主が変わり最終的に栃木から酒井氏が入封して、明治まで城主を務めたとありました。

もともとは難攻不落の城として作られた姫路城ですが、登閣口の係の人の話では「城主がたびたび変わり、一度も戦いに使われる事がなかったので、城の姿がそのまま残った」そうで、幾重もの防備の工夫が無駄だったようにも思いますが、そのような専守防衛の工夫が抑止力になったのかもしれません。2時間以上城内を見て回り、登閣口を出て振り返ると少し雲のでた空に城が夕日あびていました。

生活の目標

心構え

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“ど根性何々”として、おかしな場所に生えた植物が紹介される時があります。この例に倣えばわが家のど根性ユリが左の写真です。といってもとっくに花の時期は過ぎてメシベの部分だけが残って膨らみ、先が割れた状態になっています。根元は家の土台の割れ目に取り付いています56年前からこの場所に生えるようになり毎年花を咲かせています。いつもは花が咲けば取ってしまうのですが、今年に限って受粉したらどうなるのだろうと、残しておきました。

先週私は一歳年をとりました。若いつもりでいても時間は不公平なく確実に訪れます。じっと鏡を見れば、顔のシワは深くなり、数も増え「やはり相応の年になっている」と思います。この所雨が降っていなければ近くの海岸をランニングし、家に戻ってストレッチをするようになり、子供の時よりも体は柔軟になり、ランニングも楽になってきたので体調は良いのですが、体調が良いのと加齢とは違うのでしょう。花が終われば元気に実を付け終末を迎える準備をすべきなのです。そろそろ私も生活の目標を切り替える時期に来たのでしょう。

先が割れたユリのメシベだった部分の中にはユリの種があります。種は非常にうす~い空飛ぶ円盤の様な、中心に直径3ミリぐらいの黒い種があり、それに2ミリ幅ぐらいのうすい帯が帽子のツバの様に付いています。これが割れ目からはじき出されると空中にひらひらと舞って遠くまで飛んでゆきます。巧妙なのは種のはじき出されるメカニズムです。気が付いたのですが先が割れたとは言っても割れ目には細かい針状の突起が付いていて、普通の状態では種が外にこぼれ落ちないようになっています。またユリは枯れて乾燥しているのですが、茎は堅く、風に吹かれたり物にあたったりすると根元を中心に大きく振動します

こうしてユリの種の円盤は先端の裂け目から空中に発射され、空を舞うのです。風に吹かれたのであれば風に乗ってとぉ~くに飛ぶ事でしょう。ユリは元気に枯れていたのです顔のシワの事を考える前にやる事がありそうです

世界一のジグソーパズル

提案!

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「衣食足りて礼節を知る(生活にこと欠かなくなって、人は初めて礼儀に心を向ける余裕ができる。)」ではありませんが、最近日本では各地の建築遺産を復興する動きが盛んです。建築を社会の財産として大事にしようという考えは結構なことですが、ではどのように建築を復興するかとなると“形を精巧に再現する”の一辺倒で、過去から現在そして未来へと続く人との係りを無視しているような、居心地の悪さを感じます。

精巧に100年前のレンガ製法を再現し、レンガの色から当時と同じ物を狙った、という丸の内の三菱一号館ですが、入口玄関まで見あげるくらいの階段を登らなければならないのは、バリアフリーの現代に馴染まないのではないのか、と以前に書きました。古い建物を博物館として実物展示するのではなく、生かして使うのであれば古い部分と新しい部分を融合させる再興が必要なのではないでしょうか。

三菱一号館は建築当時のレンガや備品が一切残っていなかったので、精巧に復元するしかなかったという事でしょう。一方、ドイツのドレスデンという町の教会は第二次大戦中にイギリスの無差別爆撃を受け、無残にも瓦礫と化しました。社会主義時代はそのまま放り置かれたそうですが、ベルリンの壁崩壊後、教会再興の機運が高まり、残っていた瓦礫を集め、足りない大理石ブロックを新しく大理石から削り出して建物を再構築しました。爆撃の炎に焼かれた黒い大理石と真新しい大理石の組み合わせは一見異様です。正に世界一のジグソーパズルと言われた難事業だったでしょう。しかし大戦の悲劇、社会主義下の耐乏生活、そしてベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一の困難さとその成果、それら全ての時の流れを建物自体が後世に語り継いでいると感じます。

石と木の文化の違いがあるのかもしれませんが、全てを水に流し、新しく作り直すのではなく、時の流れを記憶して、語り継ぐ事も衣食足りて考える必要があるように思います。

劇場の演出

提案!

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皇居のほとり、国立劇場に歌舞伎を観に行ってきました。三宅坂の最高裁判所の隣に位置する国立劇場は正倉院の校倉造を模した建物で、歌舞伎などの伝統芸能が公演されます

東京での歌舞伎公演は歌舞伎座以外では国立劇場での公演回数は多いのではないでしょうか。最寄駅から多少距離がある事(車利用の時は駐車場1回500円と格安)を除けばロビーは広く、客席も多少広めで、歌舞伎座のようにあちこちに段差がある作りでもないので、建物は楽にできています

私は歌舞伎通ではありませんが、何度か観るうちに歌舞伎独特のペースに慣れたのと、全て分かろうとしなくなった事から、衣装や舞台の作りも楽しめるようになり、時々出かけるようになりました。また歌舞伎の場合には幕間の食事も含め、4時間くらいの公演になるのでゆったりした時間を過ごす事が出来るのも良い点です。

ところで幕間の食事ですが、歌舞伎座にしても国立劇場にしても30分の休みに劇場内のレストランに駆けつけ、お弁当等を取る人だけでなく、劇場内の売店で幕の内弁当やのり巻き、お稲荷さんを買って食べる人、またはお弁当を持ってくる人もいます。狭い歌舞伎座は仕方がないにしても、ロビーの広い国立劇場に幕間の食事に対する工夫がないのは残念です。

観劇客は休憩になると、われ先にロビーのソファーやベンチに殺到し、お弁当を食べ、お茶を飲みます。ロビーの空間は広いのですが、ソファーやベンチの数が少ないので、食事の前に椅子取りゲームに勝たなければなりません。またテーブルがないのでお弁当やお茶を置く事も出来ません。テーブルがあればなんと楽な事でしょう。幕間の食事ですから、椅子なしのカウンター風の背の高いテーブルでも良いと思います。今は車輪付きの会議テーブルも軽くて、簡単に動かせる物があります。折り畳み式のテーブルを幕間にロビーに並べれば、空間を有効に使って気持ちよく食事が出来ます

来年から建て替えの始まる歌舞伎座では、是非建物の造作だけでなく、空間の演出にも工夫を凝らすと公演が思い出に残る劇場になるのではないでしょうか。

憲政記念館

体験レポート

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国会議事堂正面に向かう、ゆるい坂の道の両側には国会前庭(コッカイゼンテイ)という右側に洋式庭園、左側に和式庭園があります。(両公園とも散歩にはお薦め)北側の洋式庭園はかつて参謀本部・陸軍省があった場所で、現在は庭園につながって衆議院が管理している憲政記念館があります。先日「激動の明治国家建設」という特別展を駆け足でのぞいてきました。

展示はさほど大きなものではありませんでした。

展示スペース自体それほど大きくありません。記念館の半分近くは会議室や食堂なっていて、国会議員が催す国会見学会に参加した地元支援者の休憩や議員との懇談、昼食に使われているようです(当日も会議室にはバスガイドに引率された団体が入って行きましたし、食堂は貸し切りとの事でした)。これも日本の憲政における議員と支援者の関係を考えるための実物展示なのかもしれません。

さて展示に戻れば、明治維新に始まり、幕府の結んだ不平等条約改定の為、税収不足に苦しみながら富国強兵、殖産興業奨励に努める明治政府の強権政治に対し士族の不満が高まり、多くの反乱の頂点として起こった西南戦争憲法制定を要求する政党と政府のぶつかり合い明治憲法における政府と議会の権限。など展示スペースが少ない割には分かりやすく展示されていました。

いくつかの新発見を挙げると、西南戦争は知ってはいたものの、西郷軍、政府軍はほぼ九州全土に渡って戦いを繰りひろげたという事が両軍の転戦図で分かりました。これでは明らかにクーデターといって良いでしょう。また西南戦争が終わっても徴税への反対や、国会開設要求などで小競り合いは絶えず、刀・短刀・鉄砲などで要人が襲われる物騒な時代であったと実感し、明治の国家建設が容易いではなかった事が分かりました。

さて、やっと緒に就いた国家の再構築は20年、30年掛るのでしょうか。現代の西南戦争はまだこれからのようです。

ユビキタス

体験レポート

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時々ユビキタスという言葉を聞きます。ラテン語由来の言葉だそうで「いつでも、どこでも、誰でも、どんな事からでも」情報のやり取りが出来るようになる事を言うそうです。つまりそのように情報をやり取りできるつながりはユビキタスネットワークです。

先日知り合いにメールを出したら、いま南米を旅行中だとどこかの海岸で水着の女性と取った写真を送ってきてくれました。インターネットの普及によってほとんどいつでも、地球の裏側に旅行していても、メールでやり取りができるようになりました。しかし、本当のユビキタスはこんなものではありません

ユビキタスを提唱しているトロン・プロジェクトが26回目のシンポジュームを開催しました。直接仕事とは関係ないのですが、日本発のプロジェクトでもあり、当初から時間を作って覗くようにしています。今年の驚きは生体認証チップなど高度化した電子タグでした。

電子タグとはいろいろな物に小さな電子的札を付け、それとセンサーがお互いに通信して情報のやり取りをするものです。例えば野菜や缶詰め、ワインなどに電子タグを付けて、生産者情報を必要な時にいつでも確認するなどの用途は以前からありました。今回驚いたのは、そのタグが米粒ほどに小さくなったり、別のタイプは10mほど離れた距離でもm単位で認識できるようになっていることでした。

例えば写真の生体認証チップは注射器で競走馬の肩のあたりの皮下に挿入され、リーダーを皮膚に近付けることにより、その馬の生体情報が得られるというものです。競馬をしない私には競走馬の生体認証がなぜ必要なのか分かりませんでしたが、馬に限らず動物の体の中にこんなに小さな電子機器を挿入できるようになっているのに驚きました。この他道路の舗装にチップを埋め込み、雨で道路が冠水すると、それを検出して警報を知らせるといった用途も実用化されそうです。

距離を検出できる利点は、重要書類の持ち出し警告はもちろん、操作の複雑な非常用機器を扱う時に、手順に誤りが無いようタグの付いた手袋をはめ、腕の位置を検出して、次の操作を自動音声でガイドする等、複雑な事が今までになく簡単に実現できそうです。そろそろコンピューターを意識させない情報交換がいろいろな所で始まりそうです。

ペットの世話

お勧め

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資料によれば全国には1,2522千頭の犬と、1,0189千頭の猫がペットとして飼育されていて(2007年)、毎年増加傾向にあるそうです。ペットはかわいいものですが、生き物である以上手間もかかります。わが家は猫派で、同居するようになって25年ほどになるでしょう。初代はとうに亡くなり、二代目も土の下です。現在三代目、四代目、五代目(血縁関係なく、同居を始めた順です)がわが家に暮らしています。

猫は躾さえしっかりすれば、あまり手は掛りませんが、し尿の世話にはずいぶん悩みました。当初は新聞紙を割いて段ボール箱の中にふわりと敷き詰めてし尿を吸収するようにしましたが、糞との分離がし難いのが問題でした。その内人工の砂をいろいろ試しましたが、し尿の吸着が悪かったり、砂が箱から飛び床に散らばってしまって、これという決め手がありませんでした。

7-8年前だと思いますが花王の「ニャンとも清潔トイレ」という、し尿吸収マットを設置するトレー、その上にプラスチックの網があり、網の上にし尿と糞を分離する為のチップ一定量保持できるケース、3つが一体になった専用の猫用トイレを見つけ利用していました。まず1)し尿と糞が分離される、2)チップはし尿を吸わないので臭いが少ない、3)猫の習性で糞を隠そうとする時、チップ(鉛筆よりも一回り細く15ミリほどの長さの円柱状)の大きさが適当なのか、周りにあまり飛び散らない、等の利点がありました。

チップがし尿を吸収するのではなく、網の下に落ちてパッド(針葉樹の間伐材が主原料)に吸収させるというアイディアは良かったのですが、チップが汚れはじめると、汚れたチップと汚れていないチップの区分けが出来ず、チップ全量を一度に交換しなければならないという問題がありました。(多少値段が高い)そこでいくつか別メーカーの類似形状のチップを23試したところ、新東北化学工業という会社の松の木を原料にしたチップが良いと分かりました。

チップの形状はほとんど花王の物と同じですが、し尿を吸収すると膨らんでオガクズ状に変わります。そこでスコップでオガクズ状に細かくなったクズを数回網の上で掻き回すと、クズは網の下に落ちて、網の上にはし尿で汚れていないチップだけが残ります。チップが少なくなれば、足りない分だけ補給すれば網の上には常にきれいなチップだけがある事になり経済的。天然の松は自然の消臭力・抗菌力が長持ちするそうで、臭いもほとんどありません。また鉱物系の砂よりし尿の吸収率が良いと思います。「ニャンとも清潔トイレ」と松チップの組み合わせが最終解決策だったようです

戦争についての疑問

歴史認識

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私は戦争に反対します

しかし、それは広島・長崎の被爆が悲惨だったからでも、民間人を巻き込んだ沖縄地上戦が悲惨だったからでもありません。もちろん、それらは悲惨な二度とあってはならないことですが、都市に対する無差別爆撃は日本が歴史上最初に中国重慶に対して行ったことですし、民間人を巻き込んだ地上戦は犠牲者の規模認識に差があるものの日本は日中戦争の中で数多く起こしています。前大戦に限って言えば、自国が行った事を棚上げにして、結果的に被害を受けたからと戦争に反対するのは、何か他人事の様で反対理由として釈然としません

以前、815日が近付くと毎年、戦争反対をテーマにしたテレビ番組が放映され、日本人はみな戦争反対の平和主義者だ、と言わんばかりの熱病に冒されますが、「あの戦争は何だったのか?」という疑問に答えられずに戦争に反対するのは絵空事の様だ、と書きました。128(ハワイ時間7)は日本が真珠湾攻撃を敢行した日ですが、私が長年抱えていた疑問を以下に列記してみます。

1)  なぜ日清、日露、第1次、第2次と立て続けに戦争をしたのか?

2)  戦争は悪い事だったのか?少なくとも仕方なく始めたのでは?

3)  戦争に消極的だった人の理由は?

4)  海軍非戦、陸軍好戦は本当か?

5)  陸軍悪玉、海軍善玉?

6)  太平洋戦争の目的は?

7)  満州は中国の領土だったのか?

8)  戦争では何人の死傷者がいたのか?

9)  自分が昭和天皇の立場だったとして、戦争は回避できたか?

10)  なぜ早く降伏できなかったのか?

11)  国際連盟を脱退した松岡洋介は戦争好きだったのか?

12)  開戦直前のアメリカと日本の国力・戦力の差は?

13)  開戦時の国民の反応は?

14)  ドイツと日本の同盟の実態は?

15)  日本軍の捕虜の扱いは本当に悪かったのか?

16)   そもそもなぜ軍隊が政治に介入したのか?

17)   軍はどのような勝算を見込んでいたのか?

これらに対する答えを得つつある現在、私はやっと戦争に反対する確固たる理由を見つけたように思っています。