Profile : 高度成長期に学生時代を過ごし、オイルショックで就職に苦労するも、右肩上がりの80年代をモーレツ社員の一員として働き、気がつけばバブル崩壊、希望退職で外資企業に転身して14年。
「世界の中の、明日の日本と日本人」をテーマにしている56歳。
December 2009 (15)
November 2009 (15)
October 2009 (16)
September 2009 (14)
August 2009 (15)
July 2009 (15)
June 2009 (16)
May 2009 (16)
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February 2009 (13)
January 2009 (14)
社会変革
社会問題
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2009年が終わろうとしています。ミゾウの経済危機で始まり、久々の政権交代があったものの、その実効はまだ現れず、再び上がった失業率で終わろうとしている2009年。今年は横浜港開港150年、伊藤博文没後100年、松本清張生誕100年と記念の年づいていますが、もう一つベルリンの壁崩壊20周年でもありました。
私はまだ子供の時に、ベルリンの壁を越えようとした人が撃たれて死んだ、といったニュースを聞いた世代ですが、ベルリンの壁があった事さえ知らない人たちが二十歳になるわけです。時の流れは速く、出来事を参考にしようにも、出来事はどんどん記憶のかなたに姿を隠してしまいます。そんな時に20周年が巡ってきてベルリンの壁がどのように作られ、どのように維持され、そして突然意味がなくなり、東西ドイツが合体する、という一連の出来事のドキュメンタリーが放映され、記憶の断片がつながって理解が深まりました。
一番のポイントはベルリンの壁崩壊=Happy Endではなく=新たな苦難の始まり、であったことです。
ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ再統一を1990年に成し遂げたコール首相がしばらくして卵(腐ったトマトだったかもしれない)を民衆から投げつけれらた、という事件が起きました。当時私はなぜ再統一の立役者にぶつけられた不満が何であったのか分かりませんでした。しかしあるドキュメンタリーによれば話は簡単でした、再統一の美酒の酔いがさめてみると旧東ドイツの経済は見るも無残な状況で、旧西ドイツ企業と競争できる企業はほとんどありません。従って殆どの人が失業、貨幣価値も東ドイツマルクは西ドイツマルクに比べ1/3以下、貨幣価値よりも東ドイツマルクでは食料品も買えない、という状況に陥ったのでした。「なんだこれが再統一の結果なのか」東ドイツの人達が失望したのも無理はありません。
しかし、ドイツ人は偉かった。旧東ドイツ市民に一定金額の東ドイツマルクを支給して貨幣統合を断行し、再生不能の東ドイツ企業は潰し、可能性のある企業には積極的に投資し、ドイツ再統一を10年ほどで完了しています。ちょうど1999年ごろベルリンに出張した同じ部門の技術者が「ベルリンはきれいで、活気がありました」と言っていたのを思い出します。
社会変革は当然大きなビズミを乗り越えなければなりません。ハッキリ言えば損をする人が出ます。明治維新では幕府側はもちろん討幕側の武士もほとんどの武士は戦いの利益を得ることが出来ず「これが維新の結果なのか」と言ってあちこちで反乱を起こします。新政府は幕府が結んだ不平等条約を早く改正し、西欧列強の帝国主義に呑み込まれないよう富国強兵に必死で武士の面倒などみている余裕はなかったのです。
さて高度成長からバブル経済に踊り、グローバル化の中で外需依存の経済を変革しなければいけない日本は、誰にババを引いてもらわなけれいけないのでしょうか。それをハッキリして、妥当な救済策を提供し、具体的な社会変革を行う時期に来ているのでしょう。来年は60年安保50周年です。
「興味」の少ない人たち
社会問題
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この10年ぐらいでしょうか、若い人の中に食べ物にしても、遊びにしても、あまり欲を持たない人たちが現れているように感じます。私が青年のころには自動車を運転したい、美味しいものが食べたい、海外に行きたい、と強欲でお金がないのをシャクに思いました。日本は豊かになって住む場所も、食べる物にも普通は困らなくなりました。だから欲を持たなくても生きてゆけるのでしょうか?であれば無欲な煩悩の無い聖人が増えたという事なのでしょう。
しかし現実は食べ物にしても、遊びにしても「興味」を持たない、またはすぐ「興味」を失ってしまうのが原因のように思えます。言い換えれば物事への関心が少ないのかもしれません。これが正しければ、社会的生物である人間にとっては心配なことでしょう。
私はソフトウエア開発を仕事としていたので、仕事を離れたらソフトウエアと違った事がしたいと思っていたので、ファミコンに始まるホームコンピューターゲームは一切やった事がありません。しかし同僚の若い技術者は休み時間には必ずゲームをしていました。彼らは大人になってからゲームに触れたので現実の世界とコンピューターによる、いわゆる仮想の世界とのバランスは取れていたように思います。しかし、子供の時から仮想の世界で遊ぶ事が多くなると現実の世界に対する関心が少なくなるように思います。これが最近の「興味」の少ない人たちが増えた原因ではないでしょうか。
戦争ゲームなどが犯罪を助長する、いや欲求のガス抜きになるので犯罪を抑止する、などゲームの功罪が議論されます。しかし、コンピュータゲームの一番の問題は何度も同じ事が出来るので、確実に上達し、うまい下手の違いはあれども結局先が見えてしまう、事だと思います。「まっ、あれはこんなものさ」その内ちょっとやれば先が読めて、わざわざ手を動かしてゲームを続ける必要さえなくなる。その性癖が食べ物や、身だしなみ、住まい方などにも広がり、「まっ、どちらにしても大差ないさ」とわざわざ面倒な事をしようと思わない。
この推論が正しいと証明する事は出来ませんがコンピュータが発達して、どんなに便利になっても、実体験を通した知識の蓄積は必要であり、いやそれに応じ必要性は増すように思います。
オバマ演説
社会問題
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先週、バラク・オバマ大統領が来日しました。
「中国は3泊なのに、日本は1泊」という事が大きく扱われていました。何を尺度にするかですが、人口でいえば13億人程の中国、日本の10倍です。一人あたりで考えれば日本人は3倍以上もオバマ大統領の時間を占有したわけですから、宿泊日数の長さを問題にするのはあまり意味はないでしょう。それよりも演説はどうだったのでしょう。「鎌倉の大仏より、抹茶アイスがお気に入りだった」などの、断片紹介や招待客のコメントを伝えるだけで、演説内容をそのまま伝えるテレビ番組はなかったように思います。もちろん30分以上は掛ったのではないかと思う演説ですから、瞬間芸報道に慣らされた日本のテレビ局では演説を落ち着いて放送する事は出来ないのかもしれません。
そこで日曜日の朝日新聞に掲載された全文日本語訳を読みました。1ページ全段一杯の演説は確かに長いですが、論理の段階的な展開や、具体例を挙げた主張は明快で、節の長さも適切で日本語で読んでも流石に演説を得意とする大統領だと感じます。反論しにくいように注意した言い回しで、言いたい事を言っています。例えば、
1)アジア太平洋での我々の取り組みは、揺るぎなくかつ活性化した日米同盟を通して大いに定着していくことだろう。
2) 日本は世界の舞台でより大きな役割を演じるようになり、(中略)アフガニスタンやパキス タンへの(中略)追加支援の約束をするという注目すべきリーダーシップを示した。
3) 両国政府が達した沖縄駐留米軍の再編合意の履行のため、合同の作業部会を通じて迅速に進むことに合意した。
4) 勢力圏づくりを競うのではなく、協力圏づくりを深めることで、アジア太平洋は前進していくだろう。
この後も、中国への姿勢、気候変動、核不拡散、北朝鮮問題、アジア重視の姿勢と続くのですが、特に経済政策については力が入っています。
5) 今回の景気後退が我々に教えた重要な教訓の一つは、経済成長を米国の消費者と、アジアの輸出だけに頼ることの限界だ。
6) (経済成長に向けた)新戦略は、貯蓄を増やし、支出を減らし、金融制度を改革し、長期的な赤字と借り入れを減らす(中略)我々は建設し、生産し、そして世界中に売り出すという輸出に重点を置く(中略)これらの雇用創出、風力発電の風車や太陽光発電パネルから、あなた方が日常的に使う技術にまでに及んでいる。
7) 世界中の他の国の市場開放は、米国だけでなく、世界の繁栄に極めて重要だ。(中略)世界中の市場を開放し、輸出を増やす
予算のムダ削減を進めるだけでなく、日本も同じように強い成長戦略を打ち出さないと周回遅れになってしまうのではないか、というのがオバマ演説を読んだ私の一番の印象でした。
山茶花(サザンカ)
社会問題
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2週間ほど前に心地よい香りを漂わせた金木犀(キンモクセイ)の花が散って、今度は山茶花(サザンカ)が咲きました。庭と呼べないような狭い玄関脇に植えてあるヒョロヒョロとした木なので”満開”というには恥ずかしいのですが、こんなに花が咲くとは思いませんでした。家人曰く「いつも沢山咲いている、と言っても気付かないだけ」だそうです。確かにドタバタとした出勤時や暗くなってからの帰宅では気付かなかったのでしょう。
だいぶ前の話ですが、倉本聰脚本の「君は海を見たか」というテレビドラマを思い出します。私が見たのはフジテレビで萩原健一が主人公の猛烈サラリーマンを演じたドラマです。(それ以前に映画とテレビドラマがある)詳しいストーリーは忘れましたが、家族との時間を顧みず使命感に燃えて働き続けている父親。突然小学生の息子が不治の病になった事を知った翌日、ふと線路わきに咲いたタンポポが通勤電車の窓から目に入ります。毎日通っている通勤電車の、毎日見ているはずの風景なのに、そこにタンポポがある事さえ気付いていなかった。時間が取り返せなくなった時になって、自ら失った時間に気付く、という身につまされるドラマでしたが。萩原健一ののめり込んだ演技もあって、今でも思い出します。彼も“事件”を起こさなければ、もっと良い仕事ができたでしょうに、おしかった。
と言って、現代は寿命も延びまだまだ元気で働けるので、花の咲くのも楽しみながら、仕事が出来ると良いと思います。萩原健一もまだ59歳のはずですし、期待しましょう。
政府(前政権は、というべきでしょうか)は啓もうキャンペーンで問題が解決すると思っていたのか、独立行政法人:高齢者・障害者雇用支援機構が菅原文太主演で行っているテレビコマーシャル(だけでなく山手線にも車内広告)によれば、10月は「高年齢者雇用支援月間」なのだそうです。中年まで仕事一筋、ふと気が付くとやることがない、という生き方、社会の仕組みを変える努力が必要なのでしょう。
救急ヘリ
社会問題
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2010年度の各省庁の概算要求が出て、いよいよ予算編成が本格化します。戦後60年官僚と一部政治家のものであった国家予算の決定過程を日々新聞テレビで見聞きできるのは、なんともドラマチックで、これだけでも政権交代で得したように思います。
残念ながら800兆以上にまで膨れ上がった国債依存の予算体質を政権与党が変わったからといって、一度に無借金経営に戻すことはできませんが、まずは予算を膨れ上がらせない中で豊かな社会のためのメリハリのある予算にしてもらいたいものです。
そのためには「発想の転換」が必要でしょう。例えば医療、自民党政権時代に医療費削減の為にいろいろな策が講じられましたが、それらが医師不足、医師の偏在など、いろいろな弊害を生みました。だからと言って単純に元に戻すのであれば医療費の負担が元に戻るだけです。本来コスト削減はやり方を変えて、改善して、同じ事をより安いコストで実現する事です。
都会への人口集中がやまず、地方の過疎化が進む中で、医療は高度化していますから、地方の市町村の中には総合病院を維持できなくなる所は出てくるでしょう。その中で地方の病院の水準を都会の総合病院と同じにするためには大きな公費負担が必要になり、財政の破綻に行き着くでしょう。この流れを切り替えるためには“同じ水準の病院”を期待するのではなく、都会の病院と市町村の病院を効果的に結びつける必要があります。
最近話題になる救急ヘリ(日本ではドクターヘリと言うらしい)、NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク理事長の國松孝次氏(元検察庁長官)によれば救急ヘリは出動後平均8分で医者と患者出会い、治療が始められるので1)救命率が高まる、2)早めの治療により予後の状態も良くなる、という効果が明らかなのにも関わらず日本での普及は進んでいないそうです。ヘリコプターと聞くと配備にコストがかかるのではないかと思いますが、1機約二億円で一県1機配備しても約百億円、出動可能回数から逆算すると70円~80円/一人・一年程度の負担でしかないとの事です。
救急ヘリの配備は他の国に比べ遅れています。普及も進んでいません。前例があると予算が付き、前例がないと予算が付かないという習慣に決別し、事の善し悪しだけでなく、もっと良い方法がないのかという見方でも予算は評価していきたいものです。
それは、あなたの責任!
社会問題
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ツール・ド・フランスを扱ったドキュメンタリー映画:マイヨ・ジョーヌへの挑戦は紹介しましたが、その中でレースとは関係ない事で驚いた事があります。
ツール・ド・フランスは毎年フランスを中心に3,400から3,500Kmのコースを3週間余りかけて闘い続けます。日本で考えれば本州一周のような自転車レースですから、コースとなる道路は一般道で、時にはセンターライもないような狭い道路も使われます。映画でも地方の村の中を自転車が列をなして疾走するシーンが何度もありました。
そんな中で村の中心街のコースを警備している婦警さんの態度に興味を持ちました。婦警さんは幼児を連れた見物客に向かって「その子が道に出て事故があったらどうするの!」「それは、あなたの責任です!」ここで撮影されている事に気がついた周りの人が『映画を取っているから、にこやかに!笑って!』などと取りなそうとするのですが、婦警さんは観光客と思われるお父さんに向かって「早く、子供の手を取って!」と叱りつけています。
婦警さんはレースの警備はしているが、見物に来る人の安全まで保証していない、という立場なのでしょう。確かに数多くの見物人の面倒までみていたら警備に必要な人数はけた違いでしょう。それでは本州一周に等しい大レースなど開けるわけがありません。「見物人は自分の判断で身を守れ」これは至極当然な考えでしょう。この見方でレース風景を見直してみると、スタート地点やゴール周辺には警官がいますが、途中のコース上にはそれらしき警備員は見当たりません。コースを区分けするロープさえ張られていないようです。
公の「子育て支援」の必要性が高まる中、モンスターペアレントに代表される反社会的権利主義者への対策も必要なのではないでしょうか。
マスコミ報道
社会問題
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民主党への政権交代が行われて3週間ほどが経ちます。短いようでもあり、各大臣そして鳩山首相の矢継ぎ早の行動もあり、この間話題を欠くことのない毎日でした。お陰でずいぶん時間が経ったようにも思います。そんな中で一つ気がついた事があります。テレビにしても新聞にしても、民主党の(というよりは連立政権の、と言った方が良いかもしれません)行動に対して、賛成・反対の立場の報道があるわけですが、反対の立場の報道が意外に自由にされている事です。
テレビの報道番組など司会者にしてもコメンテーターにしても、「ムダはいくらでもあると言っていたのに、補正予算の削減が予定に達しないのはなぜですか?」と辛らつな質問を閣僚に問いかけているのを何回も見ました。
自民党政権時代には、記者会見にしてもテレビの番組にしても閣僚がハッキリとした発言をする事はなく「前向きに、善処を検討したいと思います」といった、真意がどこにあるのか分からない発言がほとんどでした。また報道機関も答えにくいような質問をあえてする事もなかったように思います。たぶん閣僚や政権党に嫌われて、以後番組に出演してもらえないなど意地悪を受けるのを恐れていたのかもしれません。
CBSドキュメントなど海外の報道番組を見ていると、記者の質問は辛らつです。そんな事を聞いて良いのか、というほどの直接的な質問をします。相手が怒ってしまっても真実に迫るためには仕方がないと考えているようです。時として日本人には違和感を感じるような不躾な質問もあります。
政権交代の効果をまだ実感する事はできませんが、この報道の自由さは予期しなかった今までにない効果ではないでしょうか。いわゆる政権党の長老や閣僚経験者には報道機関も国民も「お上」という意識で奉っていたのではないでしょうか。最近は「なんというの!?」とか、「みんなでやろうゼ!」とか仲間内言葉を公に使うのが率直な態度と考えている人もいるようですが、報道機関は品位のある表現で辛らつな質問を、時には不躾を恐れず政権党に投げかけてほしいし、政権党にはそのような質問にも、冷静さを失わず的確に答えていってほしいものです。それこそが率直な意見交換で、真実に迫るためには必要な事なのですから。
電気自動車 2
社会問題
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電気自動車に熱心だったポルシェ博士も、エネルギー密度(1Kgあたりの蓄電可能な電力量)の低い蓄電池では走行距離が伸ばせず、代わりにガソリンエンジンで発電しながら走る「ガソリン・電気混成車」を開発しました。しかしその後航空機用エンジンの開発を通してエンジン技術を磨き、以後電気自動車に戻る事はありませんでした。
ただ、第二次世界大戦後の一時期電気自動車が復活した事があります。日本では立川飛行機(後のプリンス自動車、1966年日産に吸収合併)が、会社が多摩地区にあったことから「たま」という名前で電気自動車を量産しました。最高速度35Km/h、走行距離65Km、脱着式の充電池を採用し、充電時間の短縮を図るなど斬新な設計で、石油燃料が極度に不足していた時期に3,000台も普及したと言われています。しかし燃料供給状態が改善すると走行距離の伸びない電気自動車は姿を消してしまいます。
このように動力性能には優れる電気自動車ですが、その弱点は航続距離の短さで、この改善にはエネルギー密度の高い蓄電池が必要なのは明らかですが、近年まで蓄電池と言えば100年以上の歴史のある鉛蓄電池しかなく、大きな進歩は見られませんでした。
そもそも電池など、それ自体には需要を持たない商品の開発は事業化が困難で乾電池の実質的発明者である屋井先蔵(ヤイ サキゾウ)も乾電池の用途が少なく苦労したそうです。ところが携帯型家電の普及とともに充電池の需要も高まり、それが新技術の開発を促進し1990年代に入ってニッケル水素電池(エネルギー密度が鉛蓄電池の2倍)、さらにデジタル機器用にリチュウムイオン電池(同3倍)が登場し、これが電気自動車の再登板を可能にしました。とはいってもデジタル機器で使うのと自動車で使うのでは必要な蓄電池の総量がケタ違いですし、自動車には振動、熱対策が必要になります。そこでハイブリッド車では比較的安定しているニッケル水素電池が利用されていますが、本格的な電気自動車にはやはりリチュウムイオン電池が必要だといわれています。今後の電池メーカーと自動車会社の研究開発に期待がもたれます。
電気自動車 その1
社会問題
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鳩山首相の国連での温室効果ガス削減についての演説には賛否両論出ていますが、今可能な事を可能な範囲で行うではなく、必要な事を達成しなければならない所に来ているのは素人でも感じます。必要な事はいろいろあり、他国に比べ温室効果ガス排出削減に努力してきた日本は、より先端的な技術を実用化しなければならない立場にあります。
同じく民主党の高速道路無料化政策が渋滞を増やし、CO2排出を増やすと批判されていますが、常に高速道路通行料が無料となれば土日、休日に利用が重なり渋滞する事も減ると思いますが、どちらにしても必要な車の通行で発生するCO2を削減しなければなりません。CO2排出削減を進めるために、既に存在している高速道路を使わないというのは、解決策ではありません。
先端的な技術の実用化の一つが電気自動車です。高速道路を有効活用しながらCO2の排出削減をするためにはガソリンやジーゼルエンジン車から電気自動車への移行を急速に行う必要があるでしょう。2010年には各社から電気自動車が発売されます。いまから電気自動車の利用促進を進めるためにどのような政策が必要か、政治家には考えてもらわなければなりません。
実は電気自動車自体は新しいものではありません。スポーツカーの「ポルシェ」を生んだフェルディナント・ポルシェ博士が1900年のパリ万博出展に合わせて作った最初の車は電気自動車でした。実にこの時24歳、ブリキ職人の息子として生まれ独学で電気の勉強をして、18歳で電気器具製造会社の見習いになり、22歳で馬車製造会社に転職して2年で車を作ってしまうのですから、天才は違います。
はじめての自動車と言ってもホイールの中にモーターを仕込んだ、現在の最先端電気自動車と同じ原理で、当時の電気自動車のスピードレースでベストタイムを出してしまうのですから、才能の桁が違います。そして次に航続距離を伸ばすために開発したのが、「ガソリン・電気混成車」今でいうハイブリッド車です。これでもレースで優勝し、時のオーストラリア・ハンガリー帝国皇帝に認められる事になり、より大きな研究開発の場を得ることになります。
という訳で、100年前から動力源として電気モーターが多くの利点を持っている事は認められていたわけですが、電気自動車が普及するためには大きな問題を乗り越えなければなりませんでした。
(次回に続く)
温室効果ガス削減目標
社会問題
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鳩山首相の国連での演説が評判です。
朝日新聞で演説案全文を読みました。演説案となっているのは実際の演説は英語で行われたからだと思います。手前味噌ながら、私もブログの6月17日『国際交渉』で麻生首相の発表した温室効果ガス削減目標では国際交渉をリードできないとして、今後の配慮点を指摘しましたが、鳩山首相の演説はしっかりとポイントを押さえ堂々と主張していて今後への期待を感じさせました。
演説は“温室効果ガスの削減目標”“途上国への支援”“結び”の3章構成で約2,500字、一工夫ある表現も好感が持てます。いくつか紹介すると、“削減目標”では、「先進国は、率先して排出削減に努める必要がある(米国、中国への牽制)」「温暖効果を止めるための科学が要請する水準に基づくものとして…中略…25%削減を目指します(出来る事をするのではなく、必要な事をする)」「我が国のみが高い削減目標を掲げても、気候変動を止めることはできません (このポジティブな表現は交渉の手本)」「すべての主要国の参加による意欲的な目標の合意が、我が国の国際社会への約束の前提となります(論理に破綻がなく、これに反対するのは困難)」
“途上国への支援”では「これまで以上の資金的、技術的な支援を行う用意がある(まず前向きな姿勢)」「公的資金が民間投資の呼び水となる仕組み作りについての検討を進めたい(その上でクリーン・エネルギーの導入を商売にしたい、という意図を示したと思う)」
“結び”でも「革新的技術を生み出しつつ、その削減を実現してゆくことこそが、求められている役割(果敢に新技術に挑戦しなければいけない)」「産業革命以来続いてきた社会構造を転換し、持続可能な社会を作ることこそが、次の世代に対する責務…中略…まだ見ぬ未来の子供たちの為に、我々世界の政治指導者が大きな決断をしたと言われるような成果が上がるよう、ともに協力する事を皆様に強くお願いしたいと思います(これでは聴衆は拍手するしかないでしょう)」
一方、25%目標については一部の産業のトップからは実現不可能、産業は空洞化する、など否定的な意見も出ています。しかし日本の自動差産業が世界一になるきっかけとなった米国の大気汚染防止の為のマスキー法に対し、米国の自動車会社は実現不可能、コストが掛かり過ぎると反対しました。マスキー法は5年以内に一酸化炭素、炭化水素を10分の一以下にするという厳しいものでした。それに比べれば、なぜ10年先の25%削減について十分な技術的検討もする前に否定的な発想をするのでしょう。そのような企業はGMやクライスラーと同じ運命をたどるのではないでしょうか。そういえばJALがまさにGMと同じように見えてきました。
防衛費
社会問題
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以前紹介したCBSドキュメントで先日、無人軍用機のレポートがありました。レポートによれば既にアフガニスタンに実戦配備され偵察だけでなく、戦闘攻撃にも成果を上げているとのことです。驚く事にはリーパー(“死神”の意)という無人機はアフガニスタンに配備されているのですが、それを操縦するパイロットは1万キロ以上離れた米国ネバダ州の基地の中にいて、そこから遠隔操縦しているのです。
ほぼ地球の裏側ですから朝自宅で朝食を取り、車で基地に出勤し、戦闘開始するわけですが、アフガニスタンでは真夜中の戦闘という事になります。パイロットによれば実機に搭乗するよりも冷静に戦う事が可能という事です。
リーパーは米国が1990年代から開発を始めたプレデター(“捕食者”の意)という無人偵察機を大型化し攻撃機としたもので500ポンド爆弾やミサイルを搭載し、1万5千メートルの高度飛行、15時間の滞空が可能で、さらに空中の眼という1億円の高性能カメラを機首下部に搭載し3千メートル上空からでも鮮明に地上の目標を確認ができるというのです。
米空軍はリーパーを28機、プレデターを116機配備しており、2010年には無人軍用機の調達が通常軍用機のそれを超えるそうです。これは約11億円といわれる機体価格の安さによるのでしょう。ちなみに、航空自衛隊の主力戦闘機F15は機体価格85 – 102億円と言われています。
今回の衆議院総選挙では共産党が聖域なき予算の見直しとして5兆円の防衛費を挙げていました。国防に対する考え方は人により違いがあると思いますが、数多くの離島や、長い海岸線を警備する必要がある以上。そのための装備、戦略について専門家任せにし、無関心で良いのでしょうか。時代遅れや現実的には役に立たない装備に大金を投じている事はないのでしょうか。自衛隊がどのような戦略を持ち、どのような装備を考えているのか、防衛省も納税者に説明する義務があるのではないかと思います。
閣僚記者会見
社会問題
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とうとう鳩山民主党代表を総理とする内閣がスタートしました。昨日24時過ぎに閣僚の記者会見が始まりましたが、閣僚全て自分の言葉で会見をするという新しい試みにも、ワクワクしました。残念ながら質疑を含め10分以上の閣僚もいて16閣僚全ての会見を見ているわけにはいきませんでしたが、既に政府インターネットテレビにビデオがアップされているので今週末にじっくり見てみたいと思います。(NHKのサイトにも会見はアップされていますが、記者との質疑の部分がバッサリとカットされています。)
今回の衆議院総選挙ではマニフェストが定着し、各政党の公約を文書で確認出来たのは良かったと思います。確かに各候補者が公約を語るチャンスは少なく、名前の連呼だけではだれに投票するかは判断しがたく、感じの良さや、知り合いに頼まれたから、というような理由で投票がおこなわれても仕方がなかったと思います。また政治家が当選した後、公約とは違う行動を取っても批判のしようがなかったという事も是正されてゆくでしょう。
そして総理を含め閣僚が自分の言葉で、自分の考えを述べる、という手法も習慣として定着してほしいと思います。とくに会見の後、しっかり記者と質疑をするという心構えが重要でしょう。官僚の書いた台本を淀みなく読みあげられても大臣の考え、大臣の資質は分かりません。また短い言葉だけピックアップされたニュースではその人の実際の人格を見ることにもならなかった、という経験を十分しました。これからは政治家に緊張感を持って、記者会見に臨み、国民に語りかけ、たとえ予想外の質問にも真摯に応えてほしいと思います。
ところで、この記者会見ですが、記者の皆さんにも改善してほしい事があります。質問の内容を明確にするのはもちろんですが、質問の時に「あのぅ」「そのぉ」「えー」といった意味のない間投詞を挟まないように、しゃべり方の訓練をしてほしいと思います。それが政治家と対峙するプロフェッショナルとしてのプライドになるのですから。
政府インターネットテレビ閣僚会見
官僚たちの夏
社会問題
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TBSドラマ「官僚たちの夏」(日曜夜9:00)の第二部が始まりました。城山三郎の小説をドラマ化したもので佐藤浩市などの好演だけでなく、CGも使って昭和30年代の風景を再現して、評判も良いようです。城山三郎の原作でもあり、肯定的で明るいストーリーなのも今の時期に喜ばれているのでしょう。
確かに当時の官僚が日本の復興、経済成長を主導したのは事実です。しかし、その流れの延長線上に現在の官僚制度の閉塞状態もあるので、ドラマを小説として楽しむだけでなく、今後の官僚に何を期待するのかも、わすれずに考える必要があると思います。とは言え、主人公風越信吾のモデルと言われる佐橋 滋(さはし しげる)氏のような官僚が見当たらないのはどうしてなのでしょう。
私が佐橋氏を知ったのは既に氏が当時の通産省を退官したあと、1972年「余暇開発センター」の初代理事に就任した時のテレビインタビューでした。まず、大阪万国博覧会が終わり高度成長中の当時「余暇開発」を異質に感じました。またこの理事長職が次官職経験者として数多の天下り先を断っての事だと言われた事も興味を引きました。
氏の略歴を見ると、氏は1966年4月に通産省を退官し、1968年佐橋産業経済研究所を作り所長に就任、並行して競輪の利益金の一部を補助金として、新日本製鐵など民間企業五社の支援を受け1972年に余暇開発センターを設立し理事長に就任しています。氏の統制経済手法(国家主導の産業育成)は経済復興期と高度成長期以降で評価は分かれますが、退官後政官財界から距離を置き、時代を見越した問題(余暇の増進)に取り組んだのには爽快な印象を持ちました。
佐橋氏の評価も高度成長期には企業の自主性を抑圧すると批判されたように、官僚に期待される役割は時期により変わります。現在の多くの良識ある官僚には、政府と協力して経済成熟、グローバル化、少子化時代に合わせ日本をより良くするための実務者としての役割を再発見し、爽快な印象を持てる仕事をしてほしいと思います。
どの問題も、もう待ったなしで、解決に向けて進まなければいけないのですから。
鹿
社会問題
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写真は私の父が趣味で集めた各地の観光土産の中にあった鹿の人形です。私の子供の事には実家にあったように思うので、もう50年くらい前のものでしょう。どこで買ったものか、父が生きているうちに聞いておけば良かったのですが、今となっては調べようもありません。多分、表情の穏やかな所だとか、座った小鹿(?)とペアになっている所などから想像すると、有名な奈良の若草山あたりのものでしょうか。
鹿は日本では古くから生息していたそうで、縄文時代の人々の主な狩猟対象は鹿と猪だったそうです。元々「シカ」という言葉自身、肉を意味する「シ」と毛皮を意味する「カ」の合成語だそうです。今では動物園や公園でした見ない鹿ですが、かつては人々の生活と密接につながっていた動物なのでしょう。
と思っていたのですが、今年5月北海道を旅行した時驚きました。関東でも山間部に行くと道路に鹿注意の標識を見ることがありますが、まず実際の鹿に出会った事がありません。そんなつもりで夜、占冠(シムカップ)からトマムに向けて走っていたところ、突然二頭の鹿が前方に現れました。危うく一頭に衝突するところでしたがフロントガラス越しに見た鹿は大きく、セダンの車高よりはるかに高いところから見下ろされてしまいました。多分小型の馬と大差はないかもしれません。もし正面衝突していれば車は大破したでしょう。かわいいだけでない鹿を実感しました。
聞いてみると北海道では鹿と衝突する事故が多いと聞きました。私が出会った山の中だけでなく、千歳あたりの住宅地でも時期によって鹿が現れることがあり、人間は死ななかったけれど車は廃車になった、というような事故が珍しくないそうです。
人間が鹿の居住地に入り込み過ぎたのかもしれませんが、鹿の頭数が増えてしまったのかもしれません。事実北海道では昔のように鹿を食べようという事で、新しい調理法の開発なども行われています。試しに鹿のカツレツを食べてみましたが、柔らかくスジも無く、値段も手ごろで、鹿の大きな黒い眼を思い出さなければおいしく食べられるものでした。
動物愛護と食用捕獲は難しい問題で白黒を明確に分けることができません。今和歌山県の太地(タイジ)町ではイルカ漁が非難の的になっています。知能の高いイルカを食用に捕獲するとは虐殺と変わりないのではないか、という非難です。しかし知能の高い低いが白黒の基準でしょうか?かわいいと言えば鹿も牛も、豚も鶏も可愛いのです。国民審査
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衆議院選挙の開票速報が続いています。雨の日曜日、今までであれば低い投票率になるところ、期日前投票を含め今までにない投票率で、変化を感じます。
衆議院選挙の結果は、改めて検討するとして、同時に行われた国民審査について考えてみたいと思います。国民審査は司法の頂点に立つ最高裁判事の人事、つまり最高裁の判断に問題はないかを意思表示する唯一の機会です。しかし実態は不的確と思う判事の名前についてのみ×を付ける、という投票方法のお陰で今までに行われた20回の国民審査で罷免された判事は皆無というありさまです。もちろん全員適格なのであれば結果オーライですが、もともと判事の適格性を判断する情報がなさすぎます。
もちろん選挙管理委員会から審査公報は送られてきますが、それには各裁判官の略歴と担当した判決も紹介されていますが、羅列的で一般の有権者が判断するのは困難です。困難なので×を書かなければ自動的に承認した事になります。司法は国民の関心を高め、意思を反映する、として裁判員制度を進めていますが、国民の司法への関心を高めるためにはまず国民審査で国民の判断を聞きたいポイントを分かりやすく説明する必要があるのではないでしょうか。
実は今回の国民審査には、2005年の衆議院総選挙の小選挙区の一票の格差が2.17倍でも合憲と判断した2人の裁判官が含まれていました。(一人は2004年の参議院選挙で格差が5.13倍でも合憲と判断している)なんで2倍の格差があって平等と言えるのでしょう。格差を減らし、少しでも投票の効果が平等になるように指示するのが司法の役目ではないでしょうか。
民間企業は顧客満足度を重視しますが、司法(だけでなく、本当は立法も行政もですが)は司法の判断を国民がどう受け取ったのか、すなわち国民の満足度を調査すべきでしょう。国民審査はその有効な手段だと思います。司法は形だけの審査を行うのではなく、どうすれば生の国民の意見を収集できるのか創造的な工夫をしても良いのではないでしょうか。
食料自給率と食べ残し
社会問題
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この所の天候不順で野菜の出来が悪く、今までは店頭に並ばないような形が悪かったり、傷のある野菜がデパートにも並んだと、話題になっています。味に変わりがないのであれば、かえって値段の安い不揃いの野菜は人気のようです。
多分元々は均一で形の整っている方が箱詰めして輸送しやすい、というような理由から不揃いの野菜は流通しなくなったのでしょう。均一な品質が期待される工業製品と同じ品質基準を自然相手の農作物適用したのも農業を斜陽産業にしてしまった要因なのかもしれません。現在農業従事者の平均年齢は60歳前後で10年後には70歳、その時何割の人が農業を続けているか、多くは期待できない、という話を聞きました。「農業の再生」の声も高いですが、残されている時間はあまり多くないようです。
一方、日本の食料自給率は40%を切った、と強調されています。実はこの数字はカロリーベースの自給率と言う事で、1人1日2,600カロリー摂取する前提で農水省が計算している数字だそうで、実際の1日平均摂取カロリー(1,900)を基準に計算すると53%ぐらいで留まっているようです。かと言って自給率が低いことには変わりはないのですが、しかしこの計算値の違い13%はどうして出るのでしょう。
別の角度から食糧問題を見たときに、日本は飽食ならまだしも食べ残しが多く、毎日1食分のカロリー(食品)が捨てられているそうです。つまりこの捨てられた分の食料が自給率の13%の違いに対応しているのだと思います。
食料自給率の低さはさらに別の問題も隠し持っています。農作物を育てるのには多量の水が必要で、農作物を輸入するという事は農作物を育てた水、バーチャルウォーターを輸入している事に他ならないというのです。世界的な水不足が起こっている現在、これは化石燃料を世界中から買い集め、消費して温室効果化ガスを世界に排出するのと同じように、改善を急がなければいけない問題でしょう。
まずは無駄に捨てられる食材をなくしたり、利用もされない農作物を流通させる工夫が必要でしょう。まさに日本の優秀な官僚と特別行政法人に汗を流して知恵を出してもらう時が来ました。
時代の進歩
社会問題
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1909年7月25日、フランス人の飛行家ルイ・ブレリオが単葉機「ブレリオ11」を駆って初めて英仏間のドーバー海峡を横断したそうで、それから100周年を記念して今月25日、フランス人パイロットのエドモン・サリさんが当時の同型機を使って海峡の横断に成功した、との記事が新聞に出ていました。
ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功したのが1903年12月、59秒間260mの飛行であったのが、6年後には直線距離34Kmのドーバー海峡を越えたのだから、実に130倍以上の性能向上をしたことになります。そしてリンドバークがニューヨーク-パリ間5,800Kmを無着陸横断したのが、さらに18年後(1927年5月)で170倍。そしてさらに42年後に人類は月着陸に成功するわけです。
今でこそ飛行機での旅行は当たり前ですが、「機械が空を飛ぶなど、科学的に不可能」と多くの大学教授や科学者が考えていた時代から、この約100年間の飛行技術の進歩は驚くばかりです。飛行技術だけに限らず、自動車にしても、コンピュータ、テレビも、あらゆる工業製品の技術進歩は確実であり、気がつくと大きな進歩を遂げています。
その理由はいろいろあるでしょうが、一つの理由は技術がおおむね公開されていて、競争があるからではないでしょうか。
振り返って社会の進歩を考えた時に100年前とどれだけ大きく変わったのでしょうか。1909年、日本は明治42年。日清・日露の大戦に勝利して、韓国併合を決定するなど、帝国主義国家の道を邁進し始めた頃です。当時は国民に政治の選択権はなく、政治家と官僚が社会の将来を決定していた時代でしょう。しかし100年後の現在も責任感のない政治家と独りよがりの責任感にあふれた官僚が国の将来を決定している事に変わりはなく、技術の進歩ほどには社会は進歩していません。そろそろ社会も意思決定の過程を公開し、いくつかの考え方を競争させて、より良いものに近づくという時に来ているのではないでしょうか。
公共事業の企画責任
社会問題
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「国立メディア芸術総合センター(仮称)」通称アニメの殿堂は事あるごとに話題になりますが、その有効性の議論とは別にその企画のされ方を知って、企画責任の不明瞭さに驚きました。
朝日新聞によれば、「アニメやマンガ作品について、セル画、原画と合わせてアイデアがどのように形になっていくかを見せる。ゲームやメディアアートはCGなど先端テクノロジーを駆使し、来館者が五感で体験する。今のところ、そんなイメージ」なのにもかかわらず、「文化庁の試算によると、基本的な運営費は年間3億5千万円。これに対し、収入の柱となる入場料収入の見込みは『1人250円、年間60万人で1億5千万円』。2億円の差額はイベントへの会場貸し出しやグッズ販売、館内スペースの命名権販売などで埋める」のだそうです。
書類上は手抜かり無いように見えます。しかしまだイメージしかない事業の採算性がこのように計算されていること自体、おかしくないでしょうか。これでは高速道路などの需要予測と同じで、結果からのつじつま合わせとしか思えません。これが結果の責任を取らないお役所仕事の典型でしょうか。
ここは民間のビジネス感覚にならう必要があるでしょう。つまり公共事業の計画にあたっては机上の効果予測だけでなく、効果測定の指標を事前に設定し、その指標に基づいて、毎年効果測定を行い、結果を責任部署が発表する。計画と効果の乖離具合をその部署の業績評価に関連付け、さらに万一効果が計画に達する見込みがない時には計画立案時の責任者にさかのぼって責任を追及する、もちろん計画以上の効果が出た場合には特別報酬を与える、としてはどうでしょうか。
この普通のビジネス感覚が公共事業の企画でも必要です。これはすぐに始められる、無駄のない公共事業への前提だと思います。
アニメの興隆
社会問題
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私が初めて石膏デッサンをしたときに、先生に「線を描いちゃだめ、どこにも線はないでしょ」と言われて、戸惑いました。先生は石膏像には面の傾きの違いによって光の陰影の差はあるが、どこにも線はない、というのです。
確かに英語で絵を描くのはスケッチなどを除けばDrawingではなくPaintingです。色を塗るわけです。しかし一方日本では日本画や浮世絵などほとんどの絵は、線で描くのが普通です。これは東洋には文字(線)を描く道具としてペンが生まれなかったため、筆が濃淡をだけでなく線も描くことになったからだという説もあります。
どちらにしても、線で絵を描くことが普通であった日本で、アニメーションが隆盛なのは、どこかに通じるものがあるように思います。つまり少し時間をずらしたフレーム毎の絵(セルロイドのシートに描いた線画)を順々に写真に撮るセルアニメの手法は、鳥獣戯画などの絵巻物と共通しています。
一方西欧ではアニメーションといっても人形を使ったものなど別種のアニメーションが盛んです。最近の作品でお勧めは、アレクサンドル・ペトロフ監督(ロシアのアニメ作家)の「老人と海」です。これはガラス板の上に指を使って各シーンの最初のフレームの絵を直に描き、撮影し、それを一部消して、次のフレームを描き、撮影し、また一部を消して、という作業を繰り返す、絵画アニメとも呼ぶべき作品です。シーンごとに1フレーム、1フレームを手で描くという手法ですから、分業もできないでしょうし、40分の制作に4年かかったそうです。
その根気にはただただ頭が下がるだけでなく、出来栄えが素晴らしい。カジキと老人の死闘が伝わってきますし、カリブ海の灼熱の太陽の光が画面にあふれています。
この作品は2000年アカデミー短編アニメーション部門でオスカー受賞を受賞しています。幸いDVDが出ているので(多少値が張る)見ることは可能です。
「アニメの殿堂」議論から思わぬとばっちりを受けたアニメ界ですが、アニメ界の発展のためにはハコモノの前に世界の独創的なアニメーションを観る機会を増やすことこそ必要だと思います。美術の授業でアニメーションはあるのでしょうか?
農地の端に積まれた岩
社会問題
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東京都から故郷の北海道に帰郷して、大自然の中で暮らす一家の姿を描いた「北の国から」で、黒板五郎さんの丸太小屋のあった富良野市麓郷(ロクゴウ)。大正時代に開拓がはじまった十勝岳と大麓山に連なる農村地帯です。
麓郷をドライブしていると、農地の端にうず高く積まれた石、というより岩に近い、が目に飛び込んできました。(「北の国から」では五郎さんがこんな石を使って建てた石の家もありました)広い畑の一角に積まれた岩は異様な光景です。近くに大きな川があるわけでもありません。
想像ですが、このあたりは大雪山系の高原で、主峰の旭岳は火山であり、一帯には火山活動で堆積した岩が多かったのではないでしょうか。森林を切り開くだけでなく、あちこちに埋まった岩を取り除かなければ、農地にはならなかったでしょう。今のように重機の無い時代、せいぜい馬の力を借りる程度では、開拓の苦労は想像を超えるものがあったことでしょう。
手塚治虫の漫画に「シュマリ」という作品があります。明治の北海道開拓時代を背景に、藩士を殺して、道内を放浪する男の一代記です。この中で洪水、イナゴや野ネズミの大群の襲来、山火事、疫病と北海道開拓の苦難が語られます。畑の端に積まれた岩を見ていると、そのような開拓の苦難を現実のものとして感じます。
一方、畑の中には耕作放棄地もあり、今は住む人の無い家も見かけます。大変な苦労の末に開拓した土地を放棄するとは、なんと無念な事でしょう。そこにはいろいろな原因があったのでしょうが、個々の開拓民の努力を無にしない、国の長期計画と実効ある支援はあったのでしょうか。そんな疑問も浮かんできます。
地域振興券
社会問題
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地域振興券(我が街ではプレミアム商品券という名前でした)を買いました。当初は財政の逼迫を理由に、市の補助の付いた振興券は発行出来ないという話でしたが、相次いで周辺の市町村が発行したためか、商工会議所などが中心になって何とか商品券の発行にこぎつけたようです。
市が資金援助も行っていないのか、他の地域では2,000円から3,000円のプレミアムが多い中で、我が商品券は1セット9,000円で10,000円分の買い物が出来る、という物でした。1セットは1,000円単位になっており、4枚は中小商店専用、残り6枚が中小商店・大型店共通に使えるという仕組みで、一人5セットまでの購入が可能でした。
6月1日から30日までの販売で、利用は8月31日までです。12日私の後に販売窓口の信用金庫に入ってきた人が最後の2セットを買って、その支店では完売となりました。発売から(休業日を除いて)10日で売り切れてしまった訳です。
景気刺激策として定額給付金が決定し、それと歩調を合わせ地域振興券が話題になった訳ですが、2兆円とも言われた定額給付金の景気刺激効果は出ているのでしょうか。素人考えですがこの2兆円を政府支給のプレミアムとして、総額10兆円の商品券を発行した方が消費の刺激になったのではないでしょうか。預金してしまうだろうと心配された定額給付金に対して、商品券であれば使用期限を設定できるので、確実に消費に回るという利点もあります。
利益ではなく人々の幸福を事業目的とする資本主義:ソーシャル・ビジネスを提唱したバングラデシュのグラミン銀行ムハマド・ユヌス総裁が献金とソーシャル・ビジネスの違いを「献金はお金がなくなれば終わりですが、ソーシャル・ビジネスは利益を全て目的(人々の幸福)のために再投資するので、永続的に運営する事が出来ます」と説明していました。
ソーシャル・ビジネスと同じで、景気刺激も継続的でなければなりません。エコカー、エコ家電も結構ですが、地域の中小商店などにもお金の回る策として振興券を活用すると良いのではないでしょうか。とは言ってもプレミアムに当てる予算はもうバラ撒いてしまったかも知れませんが。アニメーション振興
社会問題
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15兆円補正予算の内容批判の一つとして国立メディア芸術総合センターが話題です。鳩山代表の「国営マンガ喫茶」という例えも多少強引に思いますが、政府も何が目標で、何を行うのか、真正面から反論しません。これでは結局官僚が膨らました予算を吟味もせずに、そのまま予算化したのではないか、と疑ってしまいます。
企画元の文化庁のHPによれば、メディア芸術とは,映画,マンガ,アニメーション,CGアート,ゲームや電子機器等を利用した新しい分野の芸術の総称だそうで、「アニメの殿堂」と通称言われているからと言ってアニメだけが振興の対象ではないようです。
そして「世界的に親しまれている我が国のメディア芸術を,今後もその強みを維持していくためには,この分野の人材育成や調査研究を推進していく拠点が必要となっています。」が目的だそうです。なるほど、で117億円はどのくらい人材育成、調査研究に使われるのかと言えば、予算の多くは東京(のお台場らしい)に建設する建物の用地代だそうです。なぜこういうものを地価の高い事が分かっている東京に作ろうとするのかという根本的な疑問を感じますが、それはさておいて、人材育成を目的に挙げるなら建物よりも先にやる事があります。
代表的なアニメーションについて言えば、作品の質の高さと共に有名なのは制作現場の低賃金です。これは1963年に始まる鉄腕アトムなどテレビアニメーション創世記からの宿命と言われています。日本アニメーター・演出家協会が昨年実施したアンケート調査によれば、「平均年収(アニメ以外の収入含む)は、動画を主な仕事とする人が約105万円、原画は約232万円、演出は約333万円、監督は495万円だった。(中略)概算の時給は動画298円、原画689円、監督1412円。」との事です。
アニメーターはまずキーとなる動きを決める原画と原画の間を滑らかに繋ぐ動画作りから経験を積みます。これは一種の修行ですから会社も高い給料を払う訳にはいかないのでしょう。しかし人材育成を掲げるのであれば、最低賃金に遠く及ばない時給で働く環境を放置するのではなく、修行と生活が両立するような徒弟制度を国が制度化するような工夫が、建物づくりの前に必要ではないでしょうか。
政治と理念
社会問題
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民主党の鳩山代表の印象は「優柔不断で頼りない」でした。その印象が先の党首討論で大きく変わりました。
鳩山氏は冷笑のヤジに動ずることもなく「友愛社会の実現」を語りました。長いこと聞くことのなかった政治が何を目指すのかという理念を毅然と語っているのか新鮮でした。彼は信念の人なのかもしれません。
残念ながら、テレビも新聞も党首討論の全体を報道しなかったので、私が感心した理念に関する次の二点は報道されていないようです。ここに採録したいと思います。
一つは、どういう世の中を目指すのか、です。麻生首相が抽象論と切り捨てたところは報道されていますが、その前に鳩山氏は次のように語っていました。
「税金を食ってばかりいる人たちに発想を求めるような世の中ではなく、税金を支払っている側に立って、その発想のもとで一つ一つの政策を作り上げていく(中略)地域主権の世の中にしたい」
鳩山氏は官僚主導の中央集権政治から、納税者を向いた地方分権政治への移行を明確に宣言しました。
次は、理念実現のための政治手法です。
「政府による解決はお金がかかりすぎる、ある意味での悪平等という弊害に陥る。それに対して市場原理にゆだねると今度は弱肉強食という世界に入ってしまう。悪平等と弱肉強食、どちらも国民の幸せにならなかった。だから今我々は第三の道を模索しなければいけない大事な時にいる。(以下要約)ボランティアやNPOなどに政治が光を当てれば、全体としてコストもかからず、満足も得られる仕組みができる。政治はもっとまじめにこの事に取り組まなければなりません。その為に政権交代が必要だと考えているのです。」
かつての列島改造論が物質的に豊かな未来を目指した理念だとすれば、「友愛」は日本が経済成長の過程で失ったものを再生し、精神的に豊かな未来を目指す理念なのではないでしょうか。
高度成長時代からの中央集権政治が行き詰まり、民営化に走っても目指す所のはっきりしない改革は迷走します。今こそ政治家の理念を確認しなければいけない時だと思います。
デジタル機器の宿命
社会問題
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20年以上手元に置いていたレーザディスク(LD)を処分しました。LDはパイオニアが1981年に商品化した、映像記録用の光ディスク規格で、音楽CDと同じ非接触のピックアップと虹色に輝く直径30センチのディスクはビデオテープに代わる未来的な記録装置・媒体という印象でした。ただデータ圧縮技術が未発達だったので片面約1時間の記録が最大で、1本の映画を見るのにディスクを裏返したり、続きのディスクに入れ替えたりする必要があり、今のDVDに比べるとまだ発展途上の点がありました。
先進的なイメージのLDでしたが、当初ビクターのVHSビデオの技術を利用した接触式ピックアップのVHDとの間で記録ディスク規格の主導権争いがありました。製品販売の多いVHD方式(13社)は優勢でしたが、80年代後半には解像度に優れたLDが勝利を収め、映画やカラオケなどに広く使われたわけです。
このように一時代の覇者となったLDですが、1996年にCDと同じ直径12cmに約2時間の映像記録が可能なDVD-Video規格が登場すると、製造コストの安いDVDが一気に普及し、2000年には映像ソフト発売もDVD版が主流になり、今年3月パイオニア自身が細々と続けていたLD装置の製造販売が終了しました。
デジタル機器の先駆けであったLDはコンピュータと同じで、新しいものは「機能が同等以上で性能は良い」ため、DVDが普及した以上LDを使い続ける意味がありません。
製品誕生から30年経っていないのですが、LDは完全に世の中から消える事になりました。この寿命の短さ、常に新しいものを追い求めなければいけない慌ただしさがデジタル機器の空しさなのかもしれません。
民主党、どこへ行く?
社会問題
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5月11日の小沢代表の辞任を受けて、民主党国会議員による選挙が土曜日16日に行われ鳩山由紀夫氏が新代表に選出されました。この間わずか5日、非常にスピーディーに事が進みました。民主党によれば以前の代表選挙も同じような日程だったので、今回特別に急いだわけでないとの事です。
私は時々民主党を民社党と言い間違えるくらいの有権者でしたが、近年の財政破たんの状況を知るにつけ、官僚機構を制御できない自民党の無政策、無責任さに不安を覚え、この処民主党の考え、行く道に関心を持っていました。次回衆議院議員選挙で与野党議員の逆転が起これば、何かは変わると思うからです。その為には野党第1党として民主党に技量に期待しなければなりません。
正直に言えば、私は民主党の代表が鳩山さんでも、岡田さんでも、果ては(以前書いたように、秘書氏の裁判が始まって民主党代表との掛け持ちが可能ならば)小沢さんでも構わないのです。行政改革を断行し、財政立て直しをするためには政権交代をして、シガラミを断ち切る必要があると考えているのです。
この思いから今回の代表選挙を振り返ると、民主党は与党候補として狡猾さが足りないのではないでしょうか。世論予想は次回選挙での与野党逆転に好意的ですが、無党派層が投票に行かなければ、結果はどうなるか分かりません。民主党がしなければならない事は無党派層を選挙会場に向かわせ、浮動票を手に入れる事です。
小沢一郎氏の政治資金の獲得法が問題になっていますが、何でタダで民主党の主張を広く報道できる、この代表選挙を活用しなかったのでしょう。アメリカの大統領選挙を考えれば1か月かけて代表選挙をやっても良かったのではないでしょうか。鳩山さんが「『友愛』の社会を実現」、岡田さんが「国民のみなさんの『幸せを後押し』したい」、もともと大差ありません、それで良いのです。二人で違った角度から、現状の問題を明確にし、自分のビジョンを繰り返し語れば、何回に1回は無党派層の有権者の目、耳にも達したでしょう。
民主党からすれば自党の代表を決める選挙でしかないかも知れませんが、与野党逆転が起きるか否かの重要な局面での選挙だったのです。口先だけの政権交代に終わらないよう、狡猾に浮動票獲得の工夫をしてほしいと思います。
旧岩崎邸
社会問題
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今年は東京中央郵便局の外観保存が話題になったり、東京駅の戦前の姿への復帰工事が進むなど、都市景観について考えさせられることが多くなっています。
そんな中、しばらく前に修復され一般公開されている明治の代表的な洋館建築、三菱財閥岩崎家本邸を見学してきました。現在はその庭園を含め旧岩崎邸庭園と呼ばれています。上野の池之端、不忍池の西側の丘の上に立つこの洋館は三代目当主の岩崎久彌(イワサキ ヒサヤ)が明治29年に建てたもので、設計はいわゆる「お雇い外国人」のジャサイヤ・コンドル (彼は多くの門下生を育て、日本人を妻に迎え、日本で永眠している) 。 岩崎久彌は初代:彌太郎、二代目彌之助が海運業から起こした三菱の事業を近代化し、新しい事業を興し、財閥の形を作ったと言われています。
洋館の外観は明るいクリーム色で庭園の緑とはアンバランスに思いましたが、これが文明開化の色だったのでしょう。本邸とはいえ来客用のゲストハウスであったので、地下室付きの2階建てとはいえ思ったほど大きくはありません。しかし中に入ると重厚な造り、装飾に溢れ、西洋に負けない建物にしたいと考えただろう久彌の熱意が感じられました。特に金唐紙と呼ばれる壁紙で仕上げられた2階の客室は見事でした。金唐紙とは簡単にいえばローラーに唐草模様を彫刻してそれで厚手の壁紙をプレスして模様を転写、唐草模様に金箔を張ったものです。この壁紙を張るよりも一万円札を貼った方が安いというほど手間のかかる作りだそうです。
見学路は洋館の後、久彌一族の生活の場であった和館(こちらはほとんど残っていない)を通り庭園に出て、終了となります。
庭園に出て洋館を振り返ると、洋館の背後には高層マンションが建ち、豪奢な洋館を見下ろしていました。岩崎邸は戦後米軍に接収され、接収解除後一部は最高裁判所の司法研修所等になったり、民間のマンションになったりで、現在の敷地は当時の1/3程度だそうです。建物は修復できてもかつての邸宅の姿は想像するしかありません。往時の姿を残し、文化財を守るのは難しいものです。
付け焼刃
社会問題
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新聞によれば、政府・与党は「緊急人材育成・就職支援基金」(仮称)の創設を目論んでいるそうです。これは就業期間が規定月数に足らず失業手当がもらえない人に、職業訓練の受講を条件に月10万円程度の生活費を支給したり、失業と同時に住まいを失う人に住宅手当を支給する制度のようです。一見雇用保険と生活保護の隙間を埋める温かい制度のように思われますが、1から3年の時限的な措置だというのです。
時限的措置と言うのは、1から3年で廃止になる制度です。
政府・与党は企業に対し労働市場の規制緩和を進めた一方で、派遣社員に代表される労働者の失業時の公的支援制度の充実を怠りました。それを棚に上げて今は100年に一度の不景気だから緊急避難する事が重要だと、言いたいのでしょうか。これは緊急対策に名を借りた「目くらまし」としか思えません。
労働者の今の不安は一時的な不景気に対する不安ではなく、グローバリゼーションにより中国、インドをはじめとした労働コストの安い国々と労働市場が一体になり、従来の終身雇用を企業が保証できなくなった現在、今失業していればもちろんですが、誰もが失業の不安を抱えており、且つ失業時の国の公的支援がほとんど頼りにならない事を知ってしまった不安なのです。そしてこれは景気が回復しても今のままでは誰もが持ち続けることになる不安でしょう。
将来の安心に向かう方針が示されてはじめて、緊急対策は(新たな借金をしても)やはり必要だと賛同を得られるのではないでしょうか。
「付け焼刃」とは切れ味の良くない刀にハガネを焼き足した物で、すぐに切れなくなって使い物にならなくなってしまう物の喩に使われます。やはり切れ味のよい刀を作るためにはしっかり地金を鍛え上げてもらいたいものです。今まで労働者、雇用者が共に収めた雇用保険料のうち失業手当以外の多くの資金が厚生労働省所管の各種団体に支払われてきたのですから、各団体の存在意義を今こそ示す、将来の安心が期待できる方針を聞かせてもらいましょう。
スーパーエコシップ
社会問題
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4月16日に日本郵船が未来の船「NYKスーパーエコシップ2030」を発表しました。これは海上輸送におけるCO2排出削減(現在比69%削減)を目標に2030年の実現を目指すコンテナ輸送船で、現在商業化されていない技術も盛り込む計画です。興味がわいたのはエネルギー源を重油から燃料電池に変えるだけでなく、太陽電池、さらに風力までも利用しようという所です。左のイメージ写真でも特殊な形をして帆が数多くみられます。
既に実験レベルでは太陽電池や風力をエネルギーにする船はありますし、欧州では国際輸送会社DHLがドイツとベネズエラ間の貨物船で風力を補助(パラシュートのようなものを使う)にして燃料消費を10~35%削減することを目指しているそうです。
船の歴史はエネルギー効率の歴史ともいえるようで、海流に乗った航路の設定などいろいろな手段が利用されていますが、将来もう一度帆船の時代がやってくるのかと思うと楽しくなります。タンカーだとかコンテナ船だとか、規格化された船だけになってしまった現代ですが、もう一度カラフルな帆を持った船が海を行き交うのもそう遠くないかも知れません。横浜やお台場付近の風景も変わるでしょう。
となると、先日英国の客船クィーン・メリー二世号が横浜に寄港しましたが、船の全高(62m)が高すぎで、ベイブリッジ(最大海上高60m)をくぐることができず、横浜の大桟橋ではなくベイブリッジ手前のコンテナ船や自動車専用船用の大黒ふ頭に接岸しましたが、新帆船時代に吊橋にさえぎられて接岸できない桟橋が多く出るかもしれません。
ベイブリッジは当時世界最大の客船クィーン・エリザベス二世号の全高52.2mに余裕を加えて設計されたそうですが、時代の変化は常に人の予測を超えて非情です。しかし一方、別の周期で昔の物が新しい形で再生するというのは面白い事に思います。ましてエネルギー効率では鉄道と共に優れた輸送手段である海運が語る夢に期待したいと思います。
財政赤字対策
社会問題
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東京都の下水道局が職員の制服に縫い付けるワッペンを作りましたが、デザインが都の内規に違反している(水色の波線が文字の下に入っている)事が分かり、新たに約3400万円をかけて作りなおした、という事が報道されました。これが公務員の金銭感覚なのでしょうか。当初のワッペンのデザインを決めた部長と課長は訓告処分されたそうです。しかし、訓告とは公務員の懲戒処分のうちでは二番目に軽い処分で、戒告や減給などの法律上の処分ではありません。「君ダメじゃないか、二度とするんじゃないぞ!」程度の処分です。案の定、誰も3400万円を弁償するわけではありませんでした。東京都民でなくてよかった、と言うべきでしょうか。
ところでこのワッペン、約3000人の職員に約2万枚、作ったそうです。一人に6枚半、1万1千円。制服に付けるワッペンにこれだけの費用を掛ける民間企業があるでしょうか。このようなワッペンを作ろうと決めた人たちの金銭感覚が既に民間人のそれと大きく食い違っているのです。
国も地方も赤字財政だ、というのに、公務員は親(納税者)の限度額なしのクレジットカードを思いのままに使ってしまう子供のようです。一度皆さん退職いただいて、「収入の範囲内で、お金を有効に使う」という感覚の人だけ再雇用するしかないのではないでしょうか。
有名な「私のしごと館」のように、利用予測と大きく違った高速道路のように、当初の使用目的がなくなっているのに建設続くダムのように、結果に責任を取らない公務員(公団職員含む)が限度額なしのクレジットカードを思いのままに使い続ける限り、いくら増税しても国、地方の借金は減らないでしょう。カード破産者と同じようにまずクレジットカードを使えなくすることが先決です。特殊法人や公共法人のうちどこを解散して、どことどこを統合する、という議論ではなく、破産寸前の会社と同じなのですから一度全部白紙に戻し、なくてはならない物だけ、それも最小限の範囲で活動させる、ぐらいの気構えが必要と思います。
燃料電池 その2
社会問題
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家庭で燃料電池を使う素晴らしい点、まず一点目は電球を発明したエジソンの話から。エジソンは発明家として知られていますが、野心的な事業家でもありました。彼は白熱電球の発明と時を同じくしてエジソン電気照明会社を興し、発電機を発明して発電所を作り、送電線を敷設して電灯をつけるというシステム全体を事業化しました。しかしこの事業はあえなく失敗します。これは彼のシステムが直流で電気を送電したため送電ロスが非常に高かったためと言われています。このためその後、送電ロスの少ない高電圧の交流が送電時には利用されるようになりました。しかし火力にしても原子力にしても発電所と消費地間は離れているので、送電ロスをなくすことができません。そこで消費地(家庭)で発電すれば送電ロスは無いという事になります。
二点目は熱の利用です。タービンや発電機の進歩により最近の発電所の熱効率は50%を超えていると言われていますが、逆にいえば50%前後の熱は回収しても利用方法がないので廃熱として捨てられています。一方燃料電池は発電効率が発電所の場合ほど良くないものの地産地消の性格から廃熱を捨てずにお湯が沸かせるので、給湯を含めた総合的な効率は大幅に向上します。つまり家庭にとっては経済的だし、全地球的には二酸化炭素の排出量を抑制できるという事になります。
このように家庭での燃料電池利用はいろいろなロスが減って経済的で、二酸化炭素の排出も少ない良い事ずくめなのです。と、ここでハタと新たな悩みが浮かびます。家庭での燃料電池利用は良いのですが、究極の自動車、燃料電池車では問題ないのでしょうか?車の中でお湯を沸かしてもあまり用途がないので、多分大気中に熱を捨てるという事になるでしょう。もちろん今の自動車自体エンジンでの発熱は大きいので変わりは無いのかも知れませんが、二酸化炭素の排出はなくても、排出される熱の環境影響まで考えないと究極の自動車とは言えないようです。
燃料電池 その1
社会問題
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石油を燃料とする自動車に代わり、究極のクリーンエネルギーとして燃料電池車が考えられています。正確には燃料電池で発電した電気でモーターを動かす電気自動車です。しかし単なる電気自動車と違うのは、火力発電所などで化石燃料を燃やして発電した電気を蓄電池に移してエネルギー源にするのではなく、燃料電池で発電するので化石燃料を使わず水しか排出しないという点で、究極のシステムだという訳です。
細かい事を除いて、中学校で実験した水を電気分解し水素と酸素が出来る、という反応の逆で水素と酸素を反応させると水と電気が出来るという訳です。燃料電池自体の原理は意外と古いようなのですが、私が燃料電池を知ったのは米国のアポロ計画で宇宙船に搭載された時でした。いかにも高度な技術で別世界のように感じました。
あれから約40年、今年はこの燃料電池が家庭でも使えるようになります。東京ガスがエコファームとして5月から発売するそうです。
燃料電池を使った試作車はまだ1億円もして到底市販は無理ですが、家庭用はいち早く市販される、まさに快挙!
しかしガス会社が何で燃料電池なのでしょう。問題は水素です。水素は非常に燃えやすく、扱いが石油以上に難しい事です。アポロ計画でもアポロ11号の月着陸が成功したあと、アポロ13号が月に向かう途中で燃料電池の水素ボンベが爆発して月着陸を断念、必死の普及作業で九死に一生を得て地球に帰還しました。これはトム・ハンクス主演でアポロ13号という映画にもなりました。それに水素は単体では存在せず炭素との化合物状態で存在するので、実際には各種の炭化水素を分解して水素を得る事になります。ここでガス会社の出番となるのです。
都市ガス各社が供給している天然ガスの主成分はメタンで、メタンはあらゆる炭化水素のなかで炭素原子1個あたりの水素原子の個数が最も多い物質です。都市ガス(天然ガス)を燃料電池の水素源とするのが最も効率的で、水素を取り出す事により発生する二酸化炭素(CO2)の量も最も少ない、という訳です。
宇宙技術と思っていたものが家庭でも使える、70年代の「輝かしい技術」の時代を思い出すようです。その上、家庭で燃料電池を使うのは2つの素晴らしい点があるというのですが、長くなるので、その点は次回にしましょう。
問題を分かりやすく
社会問題
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鳩山邦夫総務相の「国の恥だ。国辱ものだ」という鶴の一声で、突然工事が中断した東京中央郵便局再開発計画は、わずか11日後に日本郵政が保存部分を約2倍に増やした上で登録有形文化財への登録を目指すことで文化庁と合意し、決着しました。
しかし、もともと日本郵政は「既存の局舎は歴史的価値が高く、保存を求める声が強いこと、また東京駅などの景観との調和を図るため、外壁を可能な限り保存・活用し、その後ろに接する 形で地下4階・地上38階建て、高さ約200mの超高層ビル『JPタワー(仮称)』を建設する」と説明し、左の計画イメージ図を紹介していました。このイメージ図を見る限り旧中央郵便局のL字型をした局舎の外観は全て残される様に見えました。ですから鳩山邦夫総務相が「天然記念物のトキを焼いて食べちゃうようなもんだ」と噛みついた時には、しかし局舎は最大限残されるのだから、営利企業の日本郵政としてはこれ以上の方法はないのでは、と違和感を感じ、何がそんなに問題なのかが分かりませんでした。マスコミもこの時点では論点を詳細には報道していなかったと思います。
それが3月13日の日本郵政の発表を伝えるニュースにあった左の説明図を見ると、もともと日本郵政が保存するとしていたのは局舎の北側(駅前広場側)のみで、北東側(JR線路側)は取り壊したうえで再現する計画だったというのです。これでは当初の「外壁を可能な限り保存・活用」するとは言えないでしょうし、イメージ図とも異なってしまうように思います。結局北東側の局舎を含め保存する事になったのですが、こんなに早く計画変更できるのも不思議な気がします。もともと日本郵政は中央郵便局の局舎保存をどう考えていたのでしょう。東京中央郵便局の再開発の後、大阪中央郵便局の建て替えも計画されているのですから、文句が出たので計画を変更したではなく、当初の計画にはこのような利点があったが、計画を変更することでさらにどう良くなる事が分かったので計画を変更した、というような分かりやすい説明が必要ではなかったでしょうか。
アメリカにUSA Todayという新聞があります。ホテルなどで配られる一般紙ですが、絵入りの説明が多く、英語の説明が分かりにくくても全体像をつかみやすく気に入っています。日本の新聞、テレビ報道も事件を刺激的に伝えるだけでなく、事件の背景、当事者同士の考えの違いを分かりやすく説明する工夫をしてもらえると良いのですが。
有形文化財
社会問題
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北海道の登別市に登別温泉ふれあいセンターという建物があります。千歳から道央自動車道を南下し、登別東インターチェンジを降りて登別温泉どおり5分程走ると、登別温泉の入り口です。登別温泉ふれあいセンターは温泉街の入口にある道南バスターミナルに接して「登別川の上に建っている」珍しい建物なのです。
以前昭和モダン建築巡礼(磯達雄著、日経BP社刊)という本で見たのですが、写真でも分かるように川の上に建っている、というだけでなくその馬の鞍のような優美な曲線の屋根が印象的で一度見てみたいと思っていました。ちなみに昭和モダン建築巡礼には日本の由緒ある昭和モダニズム建築が60弱紹介されています。さてこの登別ふれあいセンターですが北海道大学の建築学、都市計画学の教授を長く務めた太田實先生が設計し、昭和32年に竣工した建物で、当初は温泉科学館として使われていたそうです。しかしその特徴である鞍型の屋根が災いして、室内の反響音が酷く展示室としても嫌われたらしく、維持管理に手お焼いた所有者の道南バスが取り壊しを見積もったところ、8千万円掛かるとわかり取り壊しを断念、現在登別市がふれあいセンターとして運営している、との事でした。
案内してくれた市の職員の方の話では「お金をかけて整備したいけれども、建物に興味がある人といっても年に5人ほどいらっしゃるだけでは、費用対効果の説明がつかなくてお金が掛けられません」と、良い利用方法もないまま周りの山並みと温泉ホテル群を一望できる2階ホールは通常非公開となっていました。
戦後の復興期から高度成長期にかけて建築された由緒ある建築も今の尺度で考えると使いにくい、維持にはお金もかかるが、取り壊すにはもっとお金がかかる、と悩みの種になって建物も多いのではないでしょうか。しかし使いやすいか、使いにくいかという基準で考えれば常に最新のもの以外はなにかしら使いにくいはずで、古いものはいらない、という発想になりかねません。使いにくいところは、それはそのまま受け入れて、良い点、貴重な点を評価し、伝えていかないと歴史は作れないでしょう。登別温泉は開湯150年だと聞きます、ふれあいセンターもあまり大きな費用対効果を期待するのではなく、室内の反響音の凄いのも、そういう特徴だと受け入れて登別の歴史を語る一つの有形文化財として考えてはどうでしょうか。
おくりびと
社会問題
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「おくりびと」がアカデミー賞を取りました。
このところ世界に対し胸の張れることの少なかった日本ですが、これは良かった。まさに「こいつぁ春から縁起がいいや」ではないでしょうか。
昨年わたしが「おくりびと」を見たとき、ちょうど母を亡くしたあとだったこともあり、いろいろな死を真摯に送る主人公の姿に、そして行き来の無かった父に複雑な気持ちを持っていた主人公が、自ら父の湯灌(ゆかん:遺体を湯で洗い浄め、死装束をまとわせる)をする事により隠されていた父の気持ちを理解するストーリーに涙しました。
私の母は約15年以上、いわゆる認知症を持っており、早い時期から私が息子であることを認知できませんでした。母と私は性格が似ているせいか、お互いの性格がぶつかりあわないように私が成人してからはあまり母の話を聞くことはありませんでした。しかし兄弟の中で一番母の影響を受けていると思う私は、母が私を認知できなくなった事を知ったとき、「しまった」と思いました。
そうなる1年ほど前、まだらボケになっていた母の具合を見に久しぶりで実家を訪れたある冬の日、帰り際に「外は寒いからここで」と玄関で言う父に対し、母は「見送りに行くよ」と外へ出て駅への帰り路を一緒に歩きました。あまり遠くまで来て家に帰れなくなるといけないので、曲り角の所で「もうここらで良いよ」と言うと、母はずーとそこで手を振って、私の姿が見えなくなるまで、帰ろうとしませんでした。私の見送りで玄関から外に出る事などそれまで無かった母のこの行動が腑に落ちず、しばらくして道を戻って母が家に入るのを確認し、それからまた駅へ向かいました。あの日を境に母は私を認知できなくなりました。言わばあの日が私にとって母が亡くなった日になりました。思えばもう一度実家に上がって母と話をすれば良かった。
さて、認知症になった母には幸い徘徊癖だとか、凶暴性だとかは現れませんでしたが、どうしても見た目は崩れてしまいました。食べこぼしなども見ようによっては汚いと見えてしまうのも仕方ありません。後年は寝たきりになったため体も曲がってしまいました。母の死が近づいた時に、壊れてしまう前の元気な母を知らない孫たちには、身ぎれいな母を送ってもらいたいと私は思いました。
死化粧についてはケネディーやマリリンモンローに施された、防腐処理をして生前の姿に修復するエンバーミング(embalming)は知っていましたので、体を清めたうえで生前の姿に近づけるような化粧をお願いしました。男女の納棺師の方は手際よく作業して、母を壊れる前の姿、表情に戻してくれました。人の思いは外見に左右されることも多く、ほとんど火葬の日本ですが、最後の短い時間とはいえ母にかつての姿を取り戻してあげられたのは良かったと思いますし、誰とも知れない死者を、献身的に面倒をみる納棺師の方には感謝しました。
英語教育
社会問題
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一緒に仕事をしたインド人から聞いたのですが、インドには主要な言語だけでも20以上あり、一つ一つ言語を数えあげたらキリがないそうです。だから英語が旧宗主国(英国)の言語だという理由からでなく、共通語としての必要性から子供が生まれると母国語(彼の場合はヒンディー語)と同時に教えるのだそうです。
日本では「母国語がちゃんと喋れないのに外国語を教えるのは子供に混乱を与えるだけだから良くない」という人もいるのだが、と聞いてみたのですが、彼は「そんな事あるかな?早ければ早いほど良いのじゃないですか」という意見でした。学術的な真偽は分かりませんが、帰国子女の英語力をみると明らかにリスニング、スピーキングは10歳以前の経験がものをいうように思います。
ところで、小学校での英語教育の義務化が検討されているようですが、あまり「教育」と肩に力を入れて議論しない方が良いのではないでしょうか。英語教育などというと、やはり体系的に文法を習い、単語を覚えて、読み書きができなければ、という事になってしまいます。その教育法に意味のない事は、われわれ戦後の英語教育を受けた人たちの英語力が証明しています。
英語教育の目標は何でしょうか?皆が英語の専門家になるわけではありません。英語教育の目的は国際化した現代にあって、外国人と会った時に国際人として胸を張って普通に挨拶が出来て、道案内だとか、物の売り買いだとか、日常の付き合いとしての会話ができることではないでしょうか。そうだとすれば最初は体系的な学習よりも決まり文句の丸暗記とオウム返しの練習です。そのレベルのリスニング、スピーキングが出来れば最初は良いのです。そして、それが出来れば体系的な学習を行う時に効率も上がるはずです。「教育」などというと、やはり“どうあるべきか”と議論しがちですが、まずは丸暗記とオウム返しの練習、教育ではなく手習いだとすれば、外国語教育が母国語の習得の妨げになるなどの議論は不要でしょう。ここまで一般人のレベルで海外との行き来が頻繁になった現代、国際人としての日本人を育てるために、意味のある英語教育をすぐに小学校から始める必要があるのではないでしょうか。
国としてやるべき事
社会問題
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ドイツのハノーバーでの仕事の帰り、フランクフルトまでの飛行機便が暴風雨のため搭乗直前にキャンセルになり、空港からハノーバーまで戻ってICEというドイツの都市間高速列車に乗り換え、フランクフルト空港駅から日本への便に乗った事があります。このような運航の信頼性や休日などには自転車ごと列車に乗れるなどの利便性から、ドイツでは鉄道も交通手段の一つになっているようです。
近年原油価格の上昇や地球環境保全の必要性から「鉄道」が世界的に見直されています。日本は新幹線に代表される高速運転技術の実績、運行時間の正確さ、鉄道網の充実度で、「鉄道」の質、量とも世界一でしょう。この技術と実績が世界の「鉄道」復権に貢献できればすばらしい事です。さらに自動車と違い完成車両の輸出だけでなく、安全管理システム、運行ノウハウなどの情報・サービスまで含めた輸出産業として成長できれば、日本の産業構造を変革する一助にもなるでしょう。
ところが日本の鉄道産業は国鉄に代表されるように長く国の管理下にあり、国内で質・量を高めた反面、車輛製造、運行システム、運行管理を一括する企業がないこともあり、海外での実績はほとんどありません。世界の鉄道企業トップ3はフランス、ドイツ、カナダの会社で、実績がモノを言う大規模ビジネスの「鉄道」で日本の鉄道企業が束になって取り組んでも、これから競争に勝ち、実績を積み上げるのは大変だと思います。
事情は少し違いますが、NHKが東京オリンピックの後から研究を重ね世界に先駆けて発表したハイビジョン。これも世界統一規格にしようとNHKは精力的に活動しましたが、結局は各国の政治的思惑などにより日米欧が別々の規格になりました。やはり相手の国にとっても大きな判断になる国際的な大規模ビジネスでは積極的な国の関与なくして成功する事は出来ないでしょう。欧米の国々は国家元首自ら私企業の名前を挙げて製品やサービスを売り込む事があります。戦闘機などの軍需物資は困りますが、日本の産業が世界に貢献でき、さらに日本の産業構造変革にもなる、重要なビジネスチャンスには政府も行政も積極的な日本のセールスマンであってもらいたいものです。高度成長時代には国が5カ年計画を立てて産業育成を主導しましたが、今は国の将来のために必要な民間の取り組みを、国としての意志と実行力を持って選択的に支援するのが“国民の奉仕者”としての姿だと思います。
尋ね人
社会問題
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私が小学校の低学年、ですから1960年(昭和35年)頃ですが、NHKのラジオで「尋ね人の時間」という番組がありました。学校から帰りおやつを食べていると聞こえてくる、満洲からの引揚者や戦争で行き別れた人を尋ねる便りをアナウンサーが感情を押さえて紹介する番組です。まだ深い事の分からない年頃でしたが語られる状況への関心からか妙に印象に残っています。はたして自分を探す1~2分の便りを運良く聞いて、相手と再会する事が出来た人はどのくらいいたのでしょうか?
ところで20年以上前になりますが、私は仕事の関係で米国の中西部オクラホマ州在住のアメリカ人と知り会いました。親しい付き合いが続きましたが、私が転職し仕事の関係がなくなると、手紙のやり取りも少なくなり、10年ほど前に音信は途絶えてしまいました。それが先日、彼の名前だけを頼りにメールのやり取りを再開する事が出来ました。アメリカでは大学生のプライベートなネットワークを作るフェースブックというSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が2004年にスタートし、2006年には一般公開されて人気を呼んでいます。私が利用したのはこのサービスの企業人版ともいえるサービスです。このサービスを使えば求職者がメールアドレスの分からない企業の重役などに自分を売り込むメールを送る事が出来るのです。もちろん名前が分かっていれば、転職や転居で連絡先の分からなくなった人を、名前を頼りに発見する事が出来るのです。私の場合、彼がドイツ系の特徴ある名前だったので一発で彼を発見する事が出来ました。しかし同姓同名の人が多数発見されても以前の勤務企業名や住居所在地で探している人を特定する事ができます。尋ね人の名前を入力してから数秒の、まさに一瞬の出来事です。このような従来の方法では不可能だった事がIT(情報技術)で可能になりました。
日本ではデータ通信のほとんどは迷惑メールだと言われています。またインターネットには闇サイトだとか裏サイトと呼ばれる悪質な利用もあります。だからと言ってITの可能性を否定するのではなく、高度成長期の多くの公害問題を地道な努力で改善したように、機敏で適正な法規制と、有効なIT利用法の啓もうによってIT本来の効果を皆が享受出来る様にしたいものです。
本当の不況対策
社会問題
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麻生首相は「安心と活力のある社会」をキャッチフレーズに「世界で最初にこの不況から脱出することを目指す」と力強いですが、自身の信じる景気回復の方針が何なのかさっぱり分かりません。
「日本は金融が破綻していないので、アメリカとは違う。」というのでしょうか。しかし今までの日本の成長がアメリカの消費、直近では住宅バブルで膨らんだ過剰消費に支えられていた事を思えば、単純に考えてアメリカの景気が回復して、元のようにジャブジャブ消費してくれない限り日本の輸出依存の景気は回復しないのではないでしょうか。定額給付金で景気が回復すればラッキーですが、日本のバブル崩壊を思い起こせば、アメリカの消費が住宅バブル真っ盛りの水準に戻るという保証はないかもしれません。
第2次オイルショック、円高不況、と高度成長期以降の不況時には景気回復の策として「内需拡大!」「輸出主導から国内消費主導へ!」と製造業中心の産業構造の転換が叫ばれました。しかし終身雇用を信じ、会社は家族と思った我々はQC活動に精を出し、サービス残業をいとわず、生産性向上に努め、何とか不況を克服してきました。しかしそれは結果的に産業構造の転換を遅らせてしまったとも言えるでしょう。1970年から2001年までの日本国内総生産の産業別割合を調べてみました。第一次産業(農林水産・鉱業)と第二次産業(製造・建設・電気・ガス・水道)が減少し、第三次産業(情報通信・金融・運輸・小売・サービス)が増えているとはいえ、95年以降を見れば第二次産業の占める割合はほとんど変わっていませんでした。要するに輸出主導の体質はほとんど変わっていないのです。
今回の不況を考えると、今までと同じようなコスト削減努力重ねたとしても、アメリカが消費してくれなければ輸出主導の景気は回復しません。産業構造の変革という根本的な対策を先延ばしにしてきた日本は今回の不況をチャンスと考えるべきなのかもしれません。産業別割合を見てみると日本に一次産業はほとんどなくなってしまいました。我々は一次産業から二次産業、そして三次産業へ発展するのが良いという考えに毒されていたのかも知れません。ヨーロッパの主要国の中でフランス、イギリス、スペイン、オランダ、ベルギーは意外にも重要な産業のトップ3に食品を位置付けているそうです。日本でも各産業がバランスする事によって、国民の暮らしは安定し、活力のある社会が実現され、結果として内需が拡大し、国内消費主導の経済が実現されるのではないでしょうか。
気付け薬の定額給付金も結構ですが、構造的な大病にかかった日本に住む我々は信頼のおける診断結果と処方を聞かないと、それだけで不安になり病気が悪化するように思います。
政治家の発言
社会問題
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国会答弁は役人の書いた台本を棒読みする習わしのようで、心を打つ答弁はまずありません。スピーチライターが書いていると分かっていてもオバマ大統領の演説が高い人気なのとは大きな違いです。
先日の国会答弁で、リーマン・ブラザースの破たんの影響について現在の心境を聞かれた与謝野経済財政相は「日本の金融機関の大変厚い資本を考えれば、まさにハチに刺された程度だろうと今も思っている」と答弁しました。さすが与謝野鉄幹・昌子の孫、なんと文学的な表現かと思いましたが、まったく意味不明な答弁でした。案の定、真意を聞かれた大臣は「“蚊に刺された程度”という言葉があり、(比較すれば)そんなに軽いものではないという意味で使った」と釈明する事になりました。またさらに「ハチもいろいろな種類があって死に至るものもある。ばかにしてはいけないという意味を含めた」加えて「いたずらに不安の連鎖を起こしてもらいたくないという意味も含めた」と補足していました。
なぜ日本の政治家はストレートに本心を言わないのでしょう。与謝野大臣のアゲアシを取るのが目的ではありませんが、後からどうとでも言い訳できるような発言をするのではなく、なぜ「バカに出来ない問題だが、不安の連鎖に陥らぬよう慎重に対策を検討したい」と最初から言わないのでしょう。それが政治家の誠実さではないでしょうか。オバマ大統領の場合、スピーチライターが書いた台本であっても、たぶん骨子は彼が指示し、最終的には彼が納得した台本を語っているので、彼の政策が成功するかどうかはともかく、その語り口の誠実さによって、彼に信頼感を抱くのではないか思います。
政治家の武器は権力ではなく説得力のはずです。説得力の源はもちろん実現可能で効果のある政策ですが、それを語る誠実な態度を抜きにしては人には伝わりません。役人が答弁の台本を書いても良いのです。大臣本人が台本に説得力がないと思えば訂正させて、早く信頼感の持てる答弁を聞かせてほしいものです。
漠然とした不安
社会問題
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生命の危険は少なく、餓える人もほとんどいない、識字率はほぼ100%の文化的国家、日本。その国民である私はこの10年ほど何か満たされず、仕事場面での充実とは裏腹に個人としては悶々と、漠然とした不安を持っていました。
これは厄介なものです、具体的な不安であれば対決し、解決することもできるし、避ける工夫もできます。しかしただ漠然とした不安は原因が分からないだけに解決も回避もできず、仕事や運動にのめりこんで不安をかき消すぐらいしか方法がありませんでした。
しかし、ふと自分が常に「改善、改良、無駄を省いて生産性向上」と考えていることに気付きました。無理もありません、工学部の学生だった約35年前、半年ごとに電卓の値段が半値になり、入学した時には20万円以上した電卓(というより卓上計算機)が3年生の時には1万円台になり自分で買う事が出来るようになりました。「改善、改良」が輝かしい未来を築くと信じ込んでいましたから。「何か問題はないか、今のやり方が良いと思うな。」常に現状を否定し、次の何かを求める、ちょっとした不都合も完璧にしなければいけない。
この仕事での性癖が習い性になって日々の生活でも、何かに追われるように、パソコンを使わなければ、これからは携帯電話だ、今こそ外貨預金だ、等々いろいろな物に取り組みますが、それによって満たされるわけではありません。次は何をしなければならないのか、先のことばかり考える。しかし今日の完璧も、明日になれば否定される。この尽きる事のない連鎖が不安の原因ではないか。
そしてこの原因から考えて逆のことを試みることにしました。例えば習字、毛筆も良いと思いますが、ペン習字でも効果はあります。文章ではなく一文字一文字を丁寧にゆっくり、きれいに書く。生産性の向上余地などありません。ただ何回も何回も書く。書いただけ僅かずつでも字の形は整い、達人の域にはとうてい達しませんが、振り返ってみれば進歩は感じ、自分に自信が持てるようになります。この長い長い道を一歩一歩進むようなところが改善の連鎖を断ち切り、漠然とした不安をはらうために効果があるように思うのです。
効果の上がる行政改革
社会問題
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行政改革が言われて久しい。国鉄が民営化されJRに、電電公社がNTTに、そして最近郵政省がJPと郵貯銀行になったのは分かるとして、省庁や特殊法人の統廃合はどうなっているのでしょう。単なる名称変更や、二つを一つに統合し名前を変えて定員、予算は変わらずといったところがほとんどのようです。元々行政改革の目的は行政コストの削減だったのではないでしょうか。民間企業では明確な目標のもとに対策が立てられ、その効果がチェックされ、効果が出なければ対策が練り直されます。行政改革に目に見えた成果が上がらないのは改革の目標設定に誤りがあり、それによる対策が実行段階でなし崩しになるのではないでしょうか。
改革に対して「抵抗勢力の反撃が」などと言われますが、もともと改革に抵抗は付き物で、抵抗が予想される目標を立てるから実務にたけた抵抗勢力に対策をなし崩しにされるのでしょう。元々抵抗できないような根本的な目標を立て対策を強行しなければ抵抗勢力との抗争は延々と続きます。根本的な目標とは予算と人事です。民間企業では売り上げが予定に達しないので予算一律20%カットとか、目標未達の責任を取って部長、重役が移動、退任という事は起こりえることです。
行政改革でも省庁や特殊法人の数を減らすとか、高速度道路の建設は何千キロにするといった2次的な目標ではなく、予算一律20%カットといった根本的な目標を立て、人事権を行政府が掌握して厳正に目標管理すれば、いつまでも赤字国債を発行し続け、はては歳入不足が本来の問題だ、などと言う問題のすげかえが起こることはないでしょう。ただし、コストを一律20%カットしても仕事の質を20%ダウンして良いというわけではありませんから、顧客である国民の満足度も合わせて調査・評価する必要もあるでしょう。
人口減少
社会問題
暮らし » 一般
「日本は閉塞している」と言われます。バブル崩壊。失われた10年。産業の空洞化。明るい話題がありません。それにトドメを刺すように2005年には人口が増加から減少に転じ、2050年には1億人を割り込むと言われています。日本には明るい未来はないのでしょうか。人口の減少は不幸の始まり、なのでしょうか。
「数は力だ!」と言った人がいます。たしかに人口は国力の分かりやすい指標でしょう。だからと言って人口減少という事実を前にして未来への希望を失う前に、人口減少の意味を冷静に考える必要があるでしょう。
日本の人口は弥生時代から室町時代まで緩やかに増加し、戦国時代から江戸中期にかけて大きく増加、江戸後期に停滞するものの、明治、大正、昭和と爆発的に増加しました。人口が2割、3割減少するという経験がありません。しかしヨーロッパ、たとえばイタリアでは15世紀に猛烈な人口減少が起こりました。1300年約900万人と言われた人口が1500年には550万人、僅か200年間に4割も減ってしまったそうです。しかし同時にルネサンスと呼ばれる文化運動がおこります。レオナルド=ダビンチが『最後の晩餐』を描いたのが1498年と言われていますが、絵画だけでなく活版印刷、羅針盤、火薬の発明がなされ、その後の社会変革の基礎を築いたのです。
この事からも、人口減少が社会の停滞、閉塞化に直結すると考えるのは短絡的過ぎるようです。本来の問題は国土と国土の再生力に見合った人口を維持しながら、豊かな国土、豊かな社会をどう実現するかです。人口構成の高齢化は付随する課題ですが、豊富な社会経験と十分な体力を持った中・高齢者が、創造性と独自性を高め、積極的な働き手として役割を担い、社会として年功序列システムとは違った中・高齢者の活用システムを作り出せば、課題を利点に転換して、人口の多い少ないに関係なく活力をもった豊かな社会が築けるものと信じます。