これが最先端?

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今年の1月初めにYahooBB(ソフトバンクグループ)ADSL回線をNTTの光回線に切り替えました。確かにネットアクセスは早くなり気持ちよく使っていましたが、NTTの電話料金とインターネットプロバイダー料金(メールを含むネットアクセス)を合わせると月に9,000円ほどになっていました。この他携帯電話AUで通信料金はまた別の請求となっていました。

この秋携帯の機種交換のためAUの販売店を訪ねた時に、わが家の周辺でもAUの光回線サービスが始まっている事を知り、電話料金とプロバイダー料金を一括した契約で6,000円ほどで済むという事から、意を決して電話回線をNTTからAUに切り替える事にしました。意を決する必要があった、というのは元々のアナログ回線時代からの電話番号は移動できるのですが、今年初めに取ったFAX専用の電話番号は移動できず、AUから新規に取るため電話番号が変わってしまうからです。しかし年間3万円以上の節約には代えがたく、電話回線の切り替えに踏み切りました。

回線切り替えの数日前にホームゲートウエーなる弁当箱ほどの機器が二つ送られてきた時に「何かおかしい」と気になりました。回線切り替えの当日、2名の作業員が来訪し30分ほどで新しい光回線の敷設は終わったのですが、係員は別の小さなDSUという機器を残して「光回線は正常に動作しています」と言って帰って行きました。

なんと「後は説明書を読んでホームゲートウェーをつなげてください」というのです。自動的に回線料金の課金が始まるというので、仕方なく説明書を読み接続を試みました。まず呆れたのはホームゲートウェーが二つ送られてきていたのは電話番号を二つ使うためだという事が分かった事ですが、さらにその二つの機器をDSUにつなぐためにハブという機器を自分で買っておかなければいけないという事が説明書の片隅に書いてあったことです。

さらに無線LANを使うためにはさらに別のメーカーの無線LAN親機を用意しなければなりませんでした。機器の接続は4、5日電話で問い合わせを繰り返し完了しましたが、現在わが家では合計5台の機器が最新の光回線を使った電話とネットワーク環境を実現するために稼働しており、夜部屋の電気を落とすとまるで都会の夜の高層ビル群を見るようです。これが本当に最先端なのでしょうか?僅かな費用節約も素人には手に負えない世の中になってきているようです。

さて1年続けた「口角を上げて」ですが、自分の考えの整理には大いに役立ちました、しかし同じ形を続けてはいけないので新年は少し休みを取って、構想を新たにして再開したいと思います。どの程度楽しんでいただけたか分かりませんが、多くのアクセスをいただき有難うございました。良い年をお迎えください

姫路城 その3

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姫路城は来年4月から5年間の修復工事に入るわけですが、見学を終え帰りがけに管理事務所の警備の方と話したのですが、基本的に瓦は50年ほどしか持たないそうで、その為雨漏りなどの補修を含め漆喰壁を取り除き、傷んだ構造を取り換えたり補修したりする必要があります。前回の昭和の修理が1964年、その前の明治の修理が1910年に終わっていて、約50年ごとに修理しているわけです。

今回の修理では城全体を仮屋根、仮壁で覆い足場を組んで作業が始まるそうで、25億円ほどの見積もりだそうです。やはり文化財を維持管理するにはお金がかかります

さてこのような姫路城ですが、姫路城の周りにはこの他美術館や歴史博物館、日本庭園の好古園などがあり、それらも興味深く見て回りました。美術館は陸軍が姫路城を管理していた時代のレンガ作りの兵器庫、被服庫を改修した建物で、ちょうど兵庫県出身の横尾忠則氏のコレクション展を見ることが出来ました。歴史博物館ではもちろん姫路地域の歴史を教えてくれますが、良かったのは全国の有名な城を1/50のモデルを一堂に展示していたことです。姫路城が江戸城には及ばないものの諸国の城の中では一番大きい事が良く分かります。

好古園はゆっくり楽しめる庭園でした。昔からの庭園と思ったのですが、姫路市制百周年記念として平成4年に開園した庭園だそうで、西御屋敷や武家屋敷跡の地割を活かして九つの趣の異なった庭園を集めています。造営から20年弱ですが、石と草木の具合も安定し、苔も一面に広がり昔からの庭園の様でした。実際時代劇のロケでは時々使われているそうです。

姫路城は貴重な観光資源ですが、姫路城の周りを順に整えている姫路の人々の努力には感心しました20年足らずで落ち着いて庭園が出来るのであれば、日々の手入れを確実に行える様は仕組みを作れば、町並みは整えることが出来るのです。その根気さと地道さが必要なのでしょう

姫路城 その2

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姫路城の見学の最後に、城郭への出入り口である“菱の門”まで戻ってくると、世界遺産姫路城の案内板から少し離れて“中村大佐顕彰碑”という高さ2m以上の大きな石碑が建っているのに気が付きました。姫路城と軍人の顕彰碑、それも大佐(少尉から大将までの士官の位でいえば真ん中くらい、けして位が高いわけではない)の碑が城郭内にある事に興味をひかれ、碑文を読んでみました。

碑文には「日本古来の城郭は兵器の発達にともなって、無用の物になり、明治6年太政官は全国の城郭125の廃棄を布達。姫路城は辛うじて残されたものの、その後の腐朽がはなはだしく、取り壊しの為2350銭(米価を尺度に換算しても約7,000倍で17万円ほどでタダ同然)で民間に払い下げられたそれを知った陸軍省第四局長代理の中村大佐が先人の築いた名城は是非後世に残さねばならぬと考え、陸軍卿山形有朋を説いて、名古屋城と姫路城は陸軍の費用で修理する事になった。」とありました。確かに後から知ったのですが明治に入り姫路城の一部を陸軍が演習場として使い、一帯を管理していたそうです。

明治の時代は廃藩置県、廃仏毀釈とそれまでの社会の基準が大きく急激に変わった時代です。権威の象徴だった城郭が民間に払い下げられても不思議はありません。そのまま解体されて木材が燃料にでもなっていたらどうでしょう。姫路は特徴の無い地方都市になってしまった事でしょう。そして我々はほぼ完全な城郭を持った日本の城を見ることがなかったでしょう。中村大佐は45歳で亡くなってしまったそうですが。戦場での武勲よりも大きな役を果たしたという事でしょう。

明治と同じように今はグローバル化の流れの中で大きく社会が変わっています。良い変化もあるでしょうが、後から見ればおかしな変化もある事でしょう。時代の勢いに流されないしっかりした目を持って物事を判断してゆきたいものです。

姫路城 その1

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白鷺城の名前で有名は姫路城が来年から5年をかけて修理に入るという事で、修理に入る前に見ておこうと急遽、姫路に行ってきました。夜明け前に家を出て、途中で仮眠をとり、午後姫路につき、早速姫路城に向かいました。

白い漆喰の城が雲ひとつない空に映えています。白鷺城の名はお城の配置が鷺が花を広げた格好に似ている事からの物で、白壁が理由ではないようですが、ほぼ完全な姿で残っている(戦災にあっていない)お城は建物としての優美さを感じさせます

そもそも姫路は姫路城で有名ですが、一体姫路城はだれの城だったのか、というのが疑問でした。戦国時代前後の歴史となると、織田、豊臣(羽柴ないし木下)そして徳川等の大筋しか知らないのが残念です。姫路城の案内によれば、もともと播磨の守護職(赤松)が砦を築いたのが始まりで、その後いろいろあって羽柴秀吉が西国後略の拠点として最初の天守閣を完成させたとありました。そ-かぁ、秀吉は主君のぞーりを温めて成り上がっただけではなかったのだ!

そして関ヶ原の合戦後家康の娘婿池田輝政が入封して、8年かけて57階の現在の天守閣を造ったそうです。ところがこの後も城主が変わり最終的に栃木から酒井氏が入封して、明治まで城主を務めたとありました。

もともとは難攻不落の城として作られた姫路城ですが、登閣口の係の人の話では「城主がたびたび変わり、一度も戦いに使われる事がなかったので、城の姿がそのまま残った」そうで、幾重もの防備の工夫が無駄だったようにも思いますが、そのような専守防衛の工夫が抑止力になったのかもしれません。2時間以上城内を見て回り、登閣口を出て振り返ると少し雲のでた空に城が夕日あびていました。

憲政記念館

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国会議事堂正面に向かう、ゆるい坂の道の両側には国会前庭(コッカイゼンテイ)という右側に洋式庭園、左側に和式庭園があります。(両公園とも散歩にはお薦め)北側の洋式庭園はかつて参謀本部・陸軍省があった場所で、現在は庭園につながって衆議院が管理している憲政記念館があります。先日「激動の明治国家建設」という特別展を駆け足でのぞいてきました。

展示はさほど大きなものではありませんでした。

展示スペース自体それほど大きくありません。記念館の半分近くは会議室や食堂なっていて、国会議員が催す国会見学会に参加した地元支援者の休憩や議員との懇談、昼食に使われているようです(当日も会議室にはバスガイドに引率された団体が入って行きましたし、食堂は貸し切りとの事でした)。これも日本の憲政における議員と支援者の関係を考えるための実物展示なのかもしれません。

さて展示に戻れば、明治維新に始まり、幕府の結んだ不平等条約改定の為、税収不足に苦しみながら富国強兵、殖産興業奨励に努める明治政府の強権政治に対し士族の不満が高まり、多くの反乱の頂点として起こった西南戦争憲法制定を要求する政党と政府のぶつかり合い明治憲法における政府と議会の権限。など展示スペースが少ない割には分かりやすく展示されていました。

いくつかの新発見を挙げると、西南戦争は知ってはいたものの、西郷軍、政府軍はほぼ九州全土に渡って戦いを繰りひろげたという事が両軍の転戦図で分かりました。これでは明らかにクーデターといって良いでしょう。また西南戦争が終わっても徴税への反対や、国会開設要求などで小競り合いは絶えず、刀・短刀・鉄砲などで要人が襲われる物騒な時代であったと実感し、明治の国家建設が容易いではなかった事が分かりました。

さて、やっと緒に就いた国家の再構築は20年、30年掛るのでしょうか。現代の西南戦争はまだこれからのようです。

ユビキタス

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時々ユビキタスという言葉を聞きます。ラテン語由来の言葉だそうで「いつでも、どこでも、誰でも、どんな事からでも」情報のやり取りが出来るようになる事を言うそうです。つまりそのように情報をやり取りできるつながりはユビキタスネットワークです。

先日知り合いにメールを出したら、いま南米を旅行中だとどこかの海岸で水着の女性と取った写真を送ってきてくれました。インターネットの普及によってほとんどいつでも、地球の裏側に旅行していても、メールでやり取りができるようになりました。しかし、本当のユビキタスはこんなものではありません

ユビキタスを提唱しているトロン・プロジェクトが26回目のシンポジュームを開催しました。直接仕事とは関係ないのですが、日本発のプロジェクトでもあり、当初から時間を作って覗くようにしています。今年の驚きは生体認証チップなど高度化した電子タグでした。

電子タグとはいろいろな物に小さな電子的札を付け、それとセンサーがお互いに通信して情報のやり取りをするものです。例えば野菜や缶詰め、ワインなどに電子タグを付けて、生産者情報を必要な時にいつでも確認するなどの用途は以前からありました。今回驚いたのは、そのタグが米粒ほどに小さくなったり、別のタイプは10mほど離れた距離でもm単位で認識できるようになっていることでした。

例えば写真の生体認証チップは注射器で競走馬の肩のあたりの皮下に挿入され、リーダーを皮膚に近付けることにより、その馬の生体情報が得られるというものです。競馬をしない私には競走馬の生体認証がなぜ必要なのか分かりませんでしたが、馬に限らず動物の体の中にこんなに小さな電子機器を挿入できるようになっているのに驚きました。この他道路の舗装にチップを埋め込み、雨で道路が冠水すると、それを検出して警報を知らせるといった用途も実用化されそうです。

距離を検出できる利点は、重要書類の持ち出し警告はもちろん、操作の複雑な非常用機器を扱う時に、手順に誤りが無いようタグの付いた手袋をはめ、腕の位置を検出して、次の操作を自動音声でガイドする等、複雑な事が今までになく簡単に実現できそうです。そろそろコンピューターを意識させない情報交換がいろいろな所で始まりそうです。

伊藤博文

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鳩山首相は93代の総理大臣だといいます。戦後の総理は何とか思い出せますが、戦前の総理となるとほとんど分かりません。そんな中では千円札に描かれた伊藤博文は初代総理だという事もあり記憶にあります。ハルビンで韓国人の民族運動家:安重根(アン・ジュングン)に狙撃され亡くなった事も教科書で読んだような気がします。

また、国道一号線を小田原に向かって走ると大磯に滄浪閣(そうろうかく)というプリンスホテルの別館レストランがあり、ここは伊藤博文の邸宅跡だと聞きました。その滄浪閣も数年前個人の所有になり、そのうちリゾートマンションになってしまうのではないか、と思っている事ぐらいが伊藤博文に関して知る事でした。

そんな伊藤博文ですが、今年が没後100年という事で大磯町郷土資料館で「滄浪閣の時代」展が開かれていました。会場は神奈川県の公園になっている城山(ジョウヤマ)公園の中にある資料館です。大磯は相模湾に面し気候が良いのですが、海岸から少し離れて国道一号線が走り、少し離れて東海道線があり、すぐに山が迫るような地形なので平地は少ないのですが、伊藤博文が居を構えたせいか、政治家や要人が好んで住んだようで、この城山公園も元は三井財閥本家の別荘だったといいます。

まず滄浪」のいわれですが、中国戦国時代の漢詩に由来して「何事も自然の成り行きに任せて身を処する」という意味だそうで、幕末から明治を勝ち抜いて初代総理になった権謀術策家という印象とは多少違った信条のようです。

農家の子として生まれた伊藤は高杉晋作に見出され攘夷運動に参加しますが、ロンドンへの密留学を機に攘夷運動の限界を感じ、開国論に転じたといいます。この一つの考えに固守しない変わり身、柔軟性は今の政治家にも期待したい資質でしょう。28歳で兵庫県知事に就任し、明治政府に深くかかわってゆきます。私生活では23歳で結婚し、3年で離婚。その1ヵ月後に梅子夫人と再婚、8ヶ月後に長女が生まれています。今回この梅子夫人の写真も何枚か見ることが出来ましたが、気丈な感じの夫人でした。

途中の展示を飛ばして、ハルビンで狙撃された時の着衣ですが、血痕は付着しているものの多量ではないので即死ではなかったでしょう。説明には打たれた時に「バカな事をして」と語ったとありました。

松永安左ヱ門

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親が購読していた「文藝春秋」で写真家:土門拳が各界の著名人を撮るという連載があって、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左ヱ門(マツナガ ヤスザエモン)を知りました。当時90歳ぐらいだったと思いますが、口を真一文字に結んで眼光鋭く人を睨みつけるような顔は印象的でした。

たまたま小田原に松永安左ヱ門が昭和21年から住んだ老欅荘(ロウキョソウ)が公開されているのを知り、訪ねてみました。移り住んだ昭和21年でさえ71歳ですから、老であるには違いないのですが数寄屋造りの荘への登り口に大きな欅(ケヤキ)の木があるのが命名の由来です。箱根に向けて国道一号線を登り始める辺りを右に入って、お寺が点在する板橋地区に松永記念館(小田原市郷土文化館分館)はあります。

松永安左ヱ門は明治8年に長崎の資産家に生まれ、15歳で東京に出て慶應義塾に学びますが、19歳で父の死に伴い郷里に戻り家督を継いで、家業をリストラして再生。23歳で銀行株で儲け、26歳で福沢桃助と商事会社を始めますが4カ月で破産。単独で石炭販売を始め成功、31歳で炭鉱経営に乗り出して失敗。さらに株の大暴落で大打撃を受け、そこへもってきて大阪の自宅は全焼。しかし35歳から電気鉄道会社、電気会社を各地に設立。昭和6年、57歳の時には5代電力会社の経営になんらか関与する事になった、というくらい波乱万丈の人なのです。

戦争直前に近衛首相から大蔵大臣に推挙されても、公職を拒み、反対していた電力の国家統制に伴い、実業界から身を引き茶事三昧で過ごし、戦後実業界に復帰し電源開発を強力に推し進め現在の九電力会社体制を構築した。という事で「電力の鬼」と呼ばれたわけですが、晩年は老欅荘で茶事と収集した美術品を愛好したと言います。

さて老欅荘ですが、記念館を入って庭園の池を巡っり、欅の大木のある一段高い場所まで階段を上がります。そこが老欅荘への昇り口で、下り龍(上り龍ではない)の石像の脇の階段を15メートルほど登ります。庵と庭の意匠は風格を感じさせるスキの無い作りですが、金持ちが贅を尽くして建てた、という感じではなく落ち着ける空間を作り出しています

われは凡人には松永翁のまねはできませんが、苦難に負けず、世事に固守することなく、元気に自分の道を追い求めたいものです。

サンフランシスコに向かって何を思う

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先日、伊藤博文没後100年記念「滄浪閣の時代」展を見るために大磯の郷土資料館(神奈川県立大磯城山公園内)へ出かけたのですが、たまたま駐車場で国道一号線を挟んで反対側にある旧吉田茂邸の庭園が特別公開されていると聞き、急遽そちらを先に見る事にしました。

大磯は伊藤博文が梅子夫人の持病治療の為もあり移り住んだことから明治以降の政治家が多く邸宅をかまえました。吉田茂も養父の1万坪の別荘を戦後改築して1967年に死去するまで住みました。その吉田邸は大磯駅から車で小田原方向に10分程度走った所にあります。長い間西武鉄道の所有だったため、一般公開されていませんでした。

西武鉄道から神奈川県に寄付され、2012年の一般公開をめざして準備を始めた矢先の今年3月、突然の火災で本邸が全焼してしまいました。蒋介石から贈られた国宝級の屏風などの品々は本邸と共に焼失した、とはいいながら大金持ちの養父の遺産(現在の貨幣価値で100億円ともいわれるを)を使って造った庭園は高低差もあり、面積以上に広さを感じ見事です

国道一号線から邸内に入ると50メートルぐらい中に駐車場があります。そこからまた50メートルぐらい歩くと日米講和条約締結を記念して作った内門(当時の貨幣価値で2千万円、まさか官房機密費で作られたのではないでしょう?)があります。佐藤首相といえども直接本邸には入れず、ここで取り次ぎを待たされたそうです。

庭園の中の「心字池」を越えて丘を登ると吉田茂の銅像が富士を背に、講和条約を調印の舞台になったサンフランシスコを向いて立っています。松林の中を下る散歩道の途中には愛犬達の小さな石の墓標も残っていました。丘を降りると竹林が続き心字池にもどります。焼失してしまった本邸を再建しようという募金活動も始まっています。もちろん本邸が再建されると良いのですが、再建には莫大な費用がかかるでしょう。また焼失してしまった歴史遺産は復元しようがありません。中途半端な復元では意味わありません。であれば、残された庭園を早く一般公開し確実に保存管理できるようにすべきではないでしょうか。庭園は見事なだけでなく、吉田茂の散歩道を歩くと、吉田茂のその時の気持ちに思いをはせる事が出来るという付録があります。

細部が大事

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箱根は紅葉真っ盛りです。

箱根湯本から塔ノ沢、大平台と坂を登るにつれて、渓谷沿いの木々の色合いが豊富になります。今回はこの紅葉を見るのも目的でしたが、仙石原にある「アルベルゴ バンブー」というイタリアンレストランに行ってきました。宮ノ下で箱根裏街道に入り、仙石原で道を左に少し入った場所にあります。

1996年からの営業となっていますが、建物は100年以上前からの洋館という雰囲気です。オーナーの説明では映画「ゴッドファーザー」のウェディングシーンに触発されて、人が集い楽しい時間を過ごせる“家”を作りたいと、8年の歳月をかけて完成したそうです。仙石原はもともと海軍と陸軍の高級将校用に開発された別荘地だと聞きましたが、この建物はその時代からのものではなく、15年ほどしかたっていない新築という事になります

ダイニングは丸テーブルが15ほど入る天井の高い広間で、ゆったりした気持ちになります。漆喰壁にはフレスコ画が描かれていて、これを見るのも楽しみです。昼食は2,000円台から7,000円台まで各種のコースがあり、中間のコースを試しましたが、前菜も豊富で美味しく、メインのパスタは味・食感ともに絶妙でした。箱根は沼津の魚貝、三島の野菜、御殿場の肉・乳製品など新鮮な素材が手に入るので美味しい料理が出来ると言いますが、その料理の舞台の雰囲気もまた格別でした

黒沢明は「赤ひげ」の撮影の時に、映画には映らない薬ダンスの中にまで漢方薬を入れたそうです。彼は細部を大事にする事によって真実味が上がる、という考えだったようです。洋風趣味のレストランはたくさんありますが、なんとなくサマにならないと感じるのは、細部を適当なもので間に合わせてしまうからでしょう。8年の歳月をかけて完成したというオーナーの熱意には敬服します。また家具だけでなく窓・扉・鎧戸、メインゲートや内部階段の手すりなどの鉄細工、古い時代の様式を守って製作する職人がいるヨーロッパの社会の厚みを羨ましく思いながら食事を終えました。何事も細部が充実すると豊かになるようです。

西伊豆-戸田

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今流行りのB級グルメではありませんが、学校の歴史教科書には出ていないけれども、少し細かく歴史をみると気になる出来事や足跡を訪ねる歴史探訪のバス旅行に西伊豆の戸田(ヘダと読みます)に行ってきました

戸田は伊豆半島の西側の付け根、沼津から海岸線を30分ほど南に下った所にある小さな漁港です。なぜここがB級歴史史跡かと言えば、日本の近代造船発祥の地だというのです。経緯は多少長くなりますが、1)ロシア皇帝の命を受けて幕末との国交交渉に日本に来たプチャーチン艦長一行が、1年あまり幕府にたらいまわしにされた揚句、やっと伊豆の下田(伊豆半島先端部の東側) で交渉を始めた翌日、安政の大地震が起こり、津波によって乗ってきたディアナ号が大きく破損2)鎖国中のため目立つ場所では修理できず、駿河湾内の強い海流の為に入江の入口に大きな砂嘴(さし:沿岸流によって運ばれた砂や小石が入江の一方の端から細長く堤状に堆積してできた地形)が出来ていて、修理作業を隠しておける戸田で修理する事になる3)伊豆西海岸を北上中、強まった風と波の為、(船は500人乗りとはいえ帆船)戸田港に入れず、駿河湾を富士川河口付近まで流され、多数の手漕ぎ漁船で戸田にまで曳航中に、風が再度強まり沈没4)陸路戸田に辿り着いた一行は寺に仮住まいしながら、日本人船大工を指導して洋式帆船(ロシア人艦長はヘダ号と命名)を3カ月余りで完成させた。といいます。この時の技術が日本海軍の軍艦に、そして日本の造船世界一につながったわけです

史実としては、この他海難事故救援という側面からロシアと戸田住民の交流、また今でも焼津に次ぐ漁獲量を誇る戸田の漁業など興味深い事があるのですが、今回の一番のお気に入りは戸田港から望む富士山でした。大きくそびえる富士はいろいろな所に絶景がありますが、海の上に現れる富士山は趣が変わっています。入江の奥からは砂嘴で狭まった入江の入口に富士山を見る事ができます。

ダム建設では建設推進理由に観光開発が必ず挙げられます。しかしダムがどの程度人を引き付けるのでしょうか。黒部ダムには行った事があります。しかしダムを観たのは10分か15で、印象に残ったのは扇沢から室堂、美女平への周辺の自然です。自然は見る場所を変え、時期が変わると表情が変わります。人工物は自然ほどには表情が変わりません。人を集めるためには地道にB級史跡を発掘・整備したり、その場でしか見られない自然を守る方が良いのではないでしょうか。

書店で本を探す

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最近は本を買うと言っても、ネットなら夜でも注文できて、家まで届くので便利です。一方「こんな本がほしいのだけれど」といった場合、類似検索でキーワードから本の題名を見つけることが出来ても、やはり内容を確認してから買いたいと思うので、書店に行かなければなりません

私は丸の内の丸善に行く事にしています。ここの書籍検索機が使い勝手が良くてお気に入りです。例えは「統計学」を使った「品質管理」に関する本を探したい時には、検索機で「統計学」と入れると750種ぐらいの本がリストされました。これではさすがに見きれないので「品質管理」に変えて検索すると200種ぐらいがリストされ、統計学とも関係のありそうな「品質管理のための統計手法」という本を見つけることができます。

しかし、なんと言っても本のあり場所が絵で示されるのが有り難い1)まず何階に在るか(丸善丸の内本店は丸の内オアゾというビルの1階から4階が店舗になっている)、そして2)そのフロアーのどの辺のコーナーに在るかが平面図上に星印で示されます。さらにその下に3)そのコーナーの中で本のある本棚が黒く示され、4)その本棚のどのあたりにあるかが5ケタの数字で示されます。これを頼りにすれば一直線に目的の本にたどりつけます。

以前、目的の本の在りかが分からなかった時の悩みは、お店の人に聞いて取ってもらうと、そのままレジに行かなければいけないような負い目を感じた事です。自分で目的の本に辿り着ければ、じっくり内容を確認する事が出来ますし、内容が期待外れであればそのまま本を棚に戻すことができます

この他、丸善にはいくつかテーブルとイスが用意されていて、じっくり本の内容を確認する事も出来ます。朝も900からやっているので、仕事の時間調整に立ち寄るのにも便利です。「本を読まなくなっている」と言われて久しいですが、丸善のような書店の工夫と努力も必要でしょう。本当の書店の楽しみは、本を手に取り、面白い本に巡り合う事なのですから。

建築文化財

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今年9月、東京丸の内ビジネス街の南西に三菱1号館が復元されました。今(来年111日まで)竣工記念で開かれている「一丁倫敦(ロンドン)と丸の内スタイル展」を見てきました。三菱1号館は明治23(1890)に三菱社が丸の内一帯の土地の払い下げを受けて、日本一のビジネスセンター建設を構想し、その最初に建設された赤レンガ造り3階建の商館です。順次道路沿いに同じような商館が建ち、10号館くらいが建つ明治の終わりにその一帯が一丁倫敦と呼ばれるようになったそうです。

ちなみに大正に入り大正3年(1914年)東京駅が完成すると、旧丸ビルなどの20世紀的で機能的なビルが立ち並び丸の内ビジネス街の中心が北東の方に移ると丸の内は一丁ニューヨークと呼ばれるようになったそうです。

建物は三菱との関係が深いジョサイア・コンドルの設計ですが、戦後の高度成長期に建て替えられている事もあり、復元と言ってもほとんど全ての部材を新規に製作したので、ディスニーランドと同じだという声もあります。しかし三菱グループのランドマークとして意味は高いのでしょう、レンガも当時の製法で再現したこだわりには敬服します

ただ可能な限り忠実に復元された建物が有効に使われるか、というと点では疑問を感じました

1.   建物内部は一つ一つの部屋が小さく、美術展などの利用では展示方法に制約が大きいだろうし、来場者が多いと会場整理が困難。

2.   2階に男子トイレ、3階には女子トイレと分かれているので余計な上下階の移動が発生。

3.   窓面積がもともと少なく、室内照明も限られているので、部屋が暗い。

4.   1階の床高が高く、スロープもないのは時代に逆行。

イギリス出張の時に立ち寄った美術館は、外観は20世紀初めの面影を残し、内部は完全に新しく設計されて使い勝手も良かったのを思い出します。保存、再現も重要ですが街中の建物を復元するのであれば、都合良く利用できるように作り上げるのが再生ではないでしょうか。

近くでは東京駅、旧中央郵便局の再開発が進められています。これらが是非、未来に対し新しい命を与える再生になってもらいたいと思いました。

ジャガイモ

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朝晩めっきり涼しくなってきました。北海道は既に実りの秋なのでしょうか、親類から自宅でとれた男爵と北あかりという二種類のジャガイモが送られてきました。早速塩ゆでして、そのままの味を楽しみました。

日本には80種以上のジャガイモがあるそうですが、男爵と北あかりを比べると、男爵は丸っこく、皮は厚みがあり、身は白く、比較的きめは粗いように思います。一方北あかりは少し扁平で、皮はうすく、身は黄味がかって、きめは細かく粉のようです。もちろん味はどちらもおいしいと思いますが、男爵が淡白な味だとすれば、北あかりは少し甘みを感じるようです。

料理上の違いは男爵よりも北あかりはゆで時間が少なくて良く、ゆで過ぎると、身が崩れやすいようです。栽培上の違いは男爵が土壌の線虫の害を受けやすいため、線虫に対する耐性を高めて品種改良した(1987)ものが北あかりだそうです。

このように品種も多く、日本国中で栽培されているジャガイモですが、男爵ジャガイモの名前が示す通り実は外来の食材です。そもそもジャガイモは中南米原産で1570年ごろインカ帝国の財宝と共にスペインが持ち帰り(略奪して、と言うべきでしょうか)16世紀末から17世紀にヨーロッパ各国に伝わり、寒冷で痩せた土地でも栽培できる事から、各国で飢饉に備えた食料として麦、米、トウモロコシと並ぶ四大作物になったそうです。近年では北朝鮮の有名な指導者がジャガイモ栽培を奨励し食料危機を救った、と称賛されていると聞きます。(なんでも自分の手柄にするポジティブさには頭が下がります。)

さて日本には1600年ごろオランダ人がインドネシア経由持ち込んだそうです。このためジャカイモの名前の由来の一つの説として、インドネシアのジャカルタが当時ジャガタラと言われていたことから「ジャガタライモ」から変化したという説もあります。

一方明治に輸入された男爵ジャガイモは、造船技術者で函館船渠再建に尽力した川田龍吉男爵が、本業の傍ら農業経営に着手、明治41(1908)イギリスから輸入したいくつかの品種のうち好成績をあげた「アイリッシュ・カブラー」という品種が男爵薯と呼ばれるようになったそうです。

ジャガイモなど日常馴染んでいる食材でも外来のものは多く、長い国際交流(ある時は侵略)の歴史を感じつつ、美味しくゆでたジャガイモを味わう夜でした。

うどん屋と介護施設

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東京の根津、上野の不忍池を右に見て地下鉄千代田線の根津駅周辺には戦前の面影を残す区画があります。その中にうどん専門店の釜竹(カマチク)があります。釜揚げうどんとざるうどんに絞った専門店です。大阪が本店で二代目が根津で2005年に開業したそうです。明治時代の木造屋敷にあった石蔵にテラスを新設した設計は建築家隈研吾(クマケンゴ)氏の作と言います。

石蔵を利用した店の作りもさることながら、つやがあり、腰の強いうどんは格別で、たっぷりの薬味もネギ、揚げ玉、生姜、七味トウガラシと4種類、たっぷりあって有り難く。一気に食べてしまいます

場所が表通りから一本入っているので分かりにくいですが、同じ敷地に指定介護保険特定施設(いわゆる老人ホーム)ウイーザス根津があるので、近くでウイーザス根津の場所を聞けば良いでしょう4階建ての一階が食堂になっているのですが、初めはそちらも釜竹のお店なのかと思ってしまったほど、中庭を共有したつくりは周囲の木造住宅と調和しています

もちろん都心の上野公園に至近の根津ですから超高級の老人ホームで普通の人は入居できそうにありませんが、広々と緑あふれる、旧屋敷時代の池や古木を残した庭園を見ながら食事を取っている老人たちは幸せそうでした。また家族なのでしょうか、見舞いの人が車いすの老人を連れて釜竹に入ってきて、皆でうどんを注文していました。車いすでも美味しいうどんを食べに行ける、と思えるところに入所できる老人は幸せな事でしょう。さらに見舞いにくる家族こそ一緒に美味しい食事が取れ、幸せなのかもしれません

省エネ快眠グッズ

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「最近の冷蔵庫は10年ほど前の物に比べて消費電力は10分の1以下です」という説明を聞いて、正直信じられませんでしたが、最近冷蔵庫を買い換えた人の実感としても、月々の電気代が目に見えて下がったそうなので、あながち嘘ではないのかも知れません。

同じようにクーラーも大きな省エネ効果が見込まれるようですが、昼間寒いくらいのオフィスで働いていると、家では自然の風で涼を感じたいと思います。そんな気持ちから夏の寝具に関心を持っていますが、先日アイスジェルパッドという快眠用品を見つけました

“熱さまシート”の大きいものがパッドにいくつも付いていて、それが体の熱を吸収する、という簡単な構造ですが、説明員によれば従来品にいろいろな改良が加えられたそうです。

1)  従来品は、ジェルを生地に包んだシートだったが、小分けしてビニールパッケージに包み込んだので、洗えるようになり、ジェルの蒸発も防げた。

2)  パッド全体にジェルシートが入っているのではなく、各ビニールパッケージ間に隙間があるので通気性があり、蒸れ感を感じることが少ない。

3)  従来品に比べジェルの粘度を高め、重さがかかった場合にジェルが逃げにくく、均等に冷やすことが出来る。

4)  好みの冷たさに合わせパッドの表面、裏面(ジェルパッケージに近く冷却効果が高い)を使い分けられる。

とは言いながら、高分子吸収体に水を含ませ防腐剤を加えただけの、要は水枕です。値段は安くないのでどの程度の効果があるのか不安です。まずは枕カバーサイズのパッドを試す事にしました

まだ夜暑くないので、室温のままで使っていますが、(室温は体温より低いので)ひんやり感が丁度良く、頭寒足熱になって、頭の芯まで徐々に冷える感じで心地よく眠れます。まさに電気不要の究極の省エネグッズでしょう。パッド自体を冷蔵庫で冷やす事も出来るので熱帯夜などでも大丈夫でしょう。この結果ならシーツサイズのパッドと合わせて今年の夏はクーラーなしで安眠できるかもしれません

ハイブリッド車

体験レポート

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北海道34日の旅でハイブリッド車を使ってみました

新千歳空港でトヨタのプリウス(旧型)を借りて道央を中心に走りました。ほぼ全行程、知り合いと共に3人が乗っていました。都市内はあまり走りませんでしたし、大雪山を中心に新得、富良野、旭川、層雲峡、糠平を回って新得に戻るなど、高地の上り下りを繰り返しましたからハイブリッド車にとっては厳しい条件だったと思います。結論からいえば1108.6Km走り、44.04リットルのレギラーガソリンを使いました。燃費は25.17Km/lで、思ったよりも好成績でした

ギヤチェンジがドライブ、バックの指示を与えるだけで、シフトレバーが無いため、多少戸惑いはありましたが、操作にはすぐに慣れ、室内は狭くなく、走行音も静かでドライブを楽しむ事が出来ました。

今年春の新型は「時速70キロ以下はモータで走る」そうですが、旧型は時速30キロを超えるとエンジンが稼働しました。ただしバッテリー容量が少ないのか、エアコンをつけていると意外に早くバッテリーレベルが下がり、始動にもエンジンを使う事がありました。ハイブリッドの名前の通り、エンジンとモータをどのように使っているかは、モニター画面で確認する事が出来ます。左写真は時速30キロ以上で加速したような場合で、エンジンとモータの力を合成して走っている状態を表しています。アクセルを離せばモータのみの走行になりますし、ブレーキを踏めば瞬時にモータによる発電に切り替わります。従って走行時のエンジン音(プリウスの場合、モータ音を含め)は従来のガソリンエンジン車とはずいぶん感じが違い、ドライブ感も違いました

初代のプリウスに乗ってから10年余りが経ちます。初代は物珍しさはありましたが、高速走行時の力不足から、ガソリンエンジン車に代わるとは思いませんでした。二代目プリウスはガソリンエンジン車と互角だと思います。従って宣伝文句通りであれば、新型プリウス(3代目)の“走り”はガソリンエンジン車以上になっていることでしょう

なお、ホンダのハイブリッド車:インサイトもレンタカーで走っていたので今度機会を作って乗ってみたいと思います。